Jesu, joy of man's desiring
まったく世間の人々は面白いことを言いなさる。神、だなんて。
一体誰が言い出したのだろう。いつの間にか広がっていた、ニックネームにしては重すぎるこの通り名。
まぁ俺自身まんざらではないし、その表現が全くもって外れているとも思わない。
そういうと彼は俺に見えないようにして笑っていた。ちゃんと見えたけれど。
一見するとその姿は膝の上の本に夢中になっているようだが、俺にはわかってしまう。
ひらりと捲ったその手が指が、僅かに動揺しているのを、俺は見逃さないんだ。
わかっておきながら少し意地悪な問いかけをしてみる。
「ねーえ、橘くんはどう思う?」
「何がです?」
至って普通の声色。うん、これは確かに普通に聞こえる。
決してこちらを見ようとしないその目がなければ、きっと気づかなかっただろう。
彼は表情を隠すのがうまい。というのは彼のことを知ったような口を利く愚か者の言葉だ。
本当は違う。これに気づいた人は多分少ない。というか他人は仏頂面の彼を知ろうとしなかった。
だけど俺は知ろうとして、気づいた。彼は表情を見せることが下手なのだ。隠した振りをするのだ。
感情なんていくらでも隠せるし作り変えることが出来る俺は、そんな彼が可愛くて仕方がない。
「漂流録のカミサマ。本当にそう思う?」
「思います」
先ほどから捲られないそのページに、何か面白いことでも書いてあった?余程聞いてやりたかった。
だけどそこまで可愛がると、壊れて崩れてしまいそうだからやめておく。
もちろんそういうのも好きだけれど、楽しみは後の方に取っておく主義だから。
相変らずこっちを見ない目も、そのままにしておいてあげる。
「じゃあ橘くんも信者になるの?」
「崇めていますよ、我が主」
いつもの余裕を取り戻したかのように、軽い冗談を加えている。
これにはさすがに惑わされかけたけれど、ぎこちなく捲られたページが真実を教えてくれた。
やっぱり俺は神様なのかな。お前の考えていることが手に取るようにわかってしまう。
自分が恐ろしい。だけど同時に楽しんでいるから、俺は本当に神なのかもしれない。
腕を伸ばして彼から本を奪い取る。反射的に上げられた目と俺の視線がぶつかった。
髪と同じように空の色を映したその瞳は、波を立てないようにしている水面のように張り詰めている。
こんなにわかりやすいのに。これは俺が神だから?それともこの目が彼のものだから?
「信仰深き者には、褒美を授けようか」
何、と彼の口だけが動いた。言葉がうまくのらなかったらしい。辛うじて掠れた音だけが聞こえた気がする。
にやりと口の端を上げれば、それが気に入らなかったのか顔を歪めて眉根を寄せた。
対照的に俺はますます面白くなって、あまりよろしくない笑顔を貼り付けた。
お前の考えていること、よくわかるよ。
恐れているんだね、悔しいんだね、悲しいんだろう?
カミサマとの距離が果てしなく開いていくのが。
「お前の望みを、きいてあげる」
どちらともない言い方をしたのは、わざとだ。
彼はぴくりと眉間の皺を深くさせる。穏やかだった水面の瞳に、波紋が一つ浮かび上がった。
期待と恐怖の入り混じったそれは、背骨に沿って何かをゾクリと駆け抜けさせた。
触れてしまおうかと手を伸ばしかけた瞬間、水は氷になり、それを拒絶した。
「では、俺の一番の願いが叶うように」
氷は鋭い一角を突きつけて笑った。研ぎ澄まされたそれは、あまりにも冷え切っている。
負けた、思わず吹き出してしまう。一筋縄ではいかないのが彼のいいところでもある。
ちらほらと隙を見せるのさえ、全て彼の思惑通りのような気さえしてしまう。
しかしまた逸らされた視線を追って、やっぱり揺らいでいる彼に気づくのだ。
あぁどうして、気づかなければ良かったのに。気づかせないようにしてくれれば良かったのに。
もう遅い。遅すぎた。だって俺の手はお前に届くし、お前はそれを簡単に受け入れてしまう。
「良かろう。聞き入れた」
「・・・ご慈悲に感謝致します」
二人して、子どものように笑った。もう子どもには戻れないけれど。
今この瞬間だけは、何も考えずに笑えていた。
数秒もしたら大人に戻っていて、それは幻のように消えてしまった。
代わりに俺は彼を抱きしめた。子どもの頃にはなかったような感情と一緒に。
俺たちの距離は確かに開いていく。常人には言い表せない時間をじっくりとかけて。
だけどそれはお前の思っているようなものではない。
漂流録の神と呼ばれる“神”は空高くへ昇っていくのではなく、地中の奥底に落ちている。
静かで誰もいない。闇の中へと俺は自ら望んで落下していくのだ。
だからわかってくれ。どんなに寂しくても、どんなに辛くても、どんなに縋られても。
そんな暗いところへ眩しいお前を連れて行けるはずがなかった。
作品名:Jesu, joy of man's desiring 作家名:しつ