ナイトメア
漂流中だとしても、余程のことがなければ普通に熟睡できる。
寝られるときに寝ておかないと、次の日に体力が持たないからだ。
疲れの取れないまま旅を続けていけばいつか必ずぼろが出る。
編集者としてじゃなくとも、自分のプライドを守るためにそれは避けたい。
だけどここは、決して安心できる場所ではない。何が存在しているか分からない未開だ。
危険が近づけばすぐに起きられるように、神経は研ぎ澄ましておく。
気を張りながら眠り、それでも疲れを取れるようになるには時間がかかったが、今ではもう容易い。
そして今も、澄ましていた神経が背中に何かを感じ取り、飛び起きた。
思わず握り締めた赤ペンが、その姿を捕らえると、手から離れるのを一瞬ためらった。
ためらわなければ良かったと後悔したが、もう投げつける気にはならなかった。
「・・・これは何のつもりだ、真備」
眠っていた背中に、気配を感じて驚いて上半身を起こした。
攻撃態勢に入ろうとして赤ペンを取り出す前に、暗闇の中でも目ははっきりと真備の姿を捉えていた。
敵ではないことに気づき、一瞬怯んだ。こいつがその隙を、鋭く狙ってきたのかはわからない。
次の瞬間、真備は俺にしがみついてきた。勢いよく胸に飛び込んできて、息がつまったほどだ。
咳き込みかけたがなんとか言葉になった問いに、真備は無言で返してきた。
「オイ、ふざけてんなら今すぐやめろ。痛い目見ないうちにな」
手よりも先に言葉が出たのは、奇跡だと思った。まだ寝ぼけているからなのかもしれない。
だけど真備は一向に俺から離れようとしない。新手の嫌がらせだと思った。
腕は背中まで回されていて、やたらと力がこめられているため、うまく身動きが取れない。
顔は生意気な笑みでも浮かべているのかと思いきや、俺の胸に突っ伏されたままで見えなかった。
少し様子が変だな、と思ったがそろそろ苛立ちが限界なので、引っぺがそうと思ったその時。
「夢見がわるかった」
震えていたわけでもない、泣いていたわけでもない。いつもの調子の声だ。
普段と変わらない声で言われた意外な言葉に、目を見開くほど驚いた。
こいつでもそんな繊細な面があるのか。
大声で笑いながら言葉攻めしてやろうかと思ったが、ぎゅうと背中の辺りの服を掴まれた。
それは本当に子どもが夜中に起きてきて、怖い夢を見たと親にすがりついているようで。
冷酷だサドだなんだと騒がれている俺だが、どうにも気分が削がれてしまった。
調子を崩して目を泳がせると、焚き火が消えていることに気づく。
どうやら夜も大分更けているらしい。夜空には幾千の星が俺たちを見下ろしている。
「何だ、化け物に食われる夢でも見たか。それとも、御馳走が口に入る前に消えたか」
生憎、子どもをあやしたり慰めたりする方法など知らない。出てくるのは要らん口ばかりだ。
いつものように蹴飛ばすのが一番手っ取り早い方法だと思うが、今は体の自由が奪われている。
上半身を支えながら地面についている両手さえ動かない。相当の馬鹿力だ。
この小さい体のどこにそんな力があるのか、考えるのも嫌なほどだ。
でもそのお陰で、背中をさすってやるとか・抱きしめてやるとか、面倒なことをしなくて済んでいるのだが。
「お前がいなくなる夢だ」
理解するのに時間がかかり、思わず真備の頭を見つめてしまった。
闇に溶けそうなほど黒い髪からは、どこか懐かしい子どものにおいがする。
嫌な夢を見たと、すがりついてきた。
それは俺がいなくなる夢だったと、きっぱり言った。
泣き喚くわけでもなく、行動以外は普段と変わらない姿のまま。
どうしてこんなにも真っ直ぐなのだろう、そう思った。
自分だって、こいつのように嫌な夢を見ることはある。
誰もが寝静まった夜に、ひとり汗だくになって飛び起き、知らずに涙を流していたことさえあった。
だけどしばらくして心が落ち着くと、悪夢なんて最初からなかったことにしてもう一度眠った。
眠って眩しい朝を迎えれば、うなされたことなど夢だったかのように思うから。
だからそんなこと誰にも言わない。弱い自分なんて見せたくないし、見たくもない。
何よりも、あの人のことをこれほどまでに求めている自分を、認めたくなかった。
ため息をひとつ零して、幼稚な子どもの匂いがする黒髪に、顎を乗せてみた。
「そうかい、それで俺は今どこにいた?」
「ちゃんとここにいた」
「それは良かったな」
「あぁ、良かった」
胸の中で自分以外の声が聞こえた。小さく笑っている。
その声を聞いて、自分もこうしていれば良かったのだろうかと思った。
誰かにこの身に潜む恐怖や不安をさらけ出し、しがみついていれば良かったのだろうか。
しかしその考えに、頭を横に振った。同時に乾いた笑いがこみ上げてきた。
・・・それは子どもの特権だ。
自分はとうに捨ててきたもの。今更それを拾い上げることなど、他でもない自分が許さない。
静かに目を瞑れば、黒い視界の中で子どものにおいが広がっていった。
これを懐かしいと感じてしまったときから、もう自分には残っていないものだった。
誰かにしがみつくことも、誰かの前で涙を流すことも、誰かを頼ることも。
たった一言の、行かないで、という言葉も。
真備は相変らず離れようとしない。俺もそれを咎めることはしない。ただ静かな時間が流れている。
風が通り抜けたが、寒さは感じなかった。胸の辺りに感じる、子どもの体温がひどく暖かい。
どこかで感じたようなその温もりに、泣きそうになった。