優しく突き放す
いつの間に人が減ったのかは知らない。今日はずっと観察していたから。
僕の視線に気づいてはいると思う。不快そうな視線をたまに寄越してくるから。
だけど僕は辞めなかった。不可解な思いの答えが導かれるまで観察すると決めたから。
そして夕日も沈みきった頃、突然帰ると言い出した橘を見てひとつの答えが沸いて出た。
「僕はどうやら橘のことが好きらしい」
気づいてすぐに言葉にしてしまうところが、なんとも僕らしい。
幸い僕ら以外誰もいなかったので、怒られることもないだろう。
という考えは甘かったらしく、赤ペンが顔面めがけて正確に飛んできた。
紙一重でそれをかわすと、橘は舌打ちして懐から煙草を取り出した。
「新手のセクハラと取っていいのか?」
「いたって真面目だが」
ふぅ、と吐かれた嫌な色の煙は天井へゆっくりと昇っていく。
だけどこの場の空気はどんどん重くなり、橘のついたため息も地を這うようだった。
彼は面倒くさそうに僕の横まで足を進める、煙草の匂いが近くてきつくなる。
いつもと少し違うにおいがする。煙草を変えたのだろうか。
そんなことを考えていると、顔の横の壁に突き刺さった赤ペンを彼が引き抜いた。
壁に残った痛々しい跡を見る。ただでさえ古い建物だ。後でミツネに怒鳴られるだろう。
彼もそれを感じたのか、長い指でその傷跡を黙って撫でている。
それは何でもないような動作なのに、僕は何だか誘われている気分になった。
「はっきり断られるかオブラートに包んで断られたいか、選ばせてやる」
「・・・・じゃあオブラートのほうでひとつ」
「甘えんな糞餓鬼」
デコピンを食らった。しかも綺麗にハマったので相当痛い。
額を押さえて声にならない叫び声を出していると、橘がもうひとつ息を吐いた。
視線はずっと壁の穴を見ていて、長い指はもうポケットにしまわれている。
相変らず額を押さえながらそれを見ていると、何だか時が止まったような気さえした。
「真備」
ふいに落ちてきたのは静かな声。
それから見下ろすんじゃなくて、丁寧に僕の高さに合わせた視線が投げかけられる。
「諦めろ」
これがオブラートに包んである方の断り方なのか?
見たこともないくらい穏やかで寂しい顔で笑って、珍しく真っ直ぐ僕を見ながら言う。
お前は本当にひどいやつだな、橘。これを素でやってのけるのだから惨すぎる男だ。
その瞳の奥に誰が居るのか、僕が気づいてないとでも思っているのだろうか。
「前向きに検討しておこう」
「いっそのことその減らず口を縫ってやってもいいぞ」
どこから取り出したのか、彼の手に現れたのは鋭くとがった針と白い糸。
そういう態度の橘の方がよっぽどお前らしい。
呑気にそう思いながら、本気で縫われそうになっている口を必死で守る。
ひらりと恐ろしい本気の攻撃をかわしながらも、隙を突いて彼の右耳に口を近づけた。
さすがに驚いて肩をこわばらせている。面白かったので鼻で笑ってから呟いた。
「愛を囁くことくらい赦してくれよ」
あの人を忘れろとは言わないから。