あかねいろ
だけど綺麗な音。一粒一粒が鮮やかな違う色をしている。硝子だったり鉄だったりプラスチックだったり。
自分の教室を前に動けないでいた。黒髪が机の上に足を組んで座り、ギターを弾いている。
キャラメル色をした見慣れたそれは、おそらく間違えていなければ自分のものなのだが。
見たことのない背中があまりにも堂々とそれを弾いているので、どうも自信がなくなってきた。
どうしたものかと、ぼんやりと眺めていた。窓から見える赤い夕日が黒髪に差し込める。
色んな顔をする割に全く表情のない音とその景色がやけにぴたりとはまって、素直に綺麗だと思った。
「うわ、びっくりした」
こっちの台詞だ、と言いたかったが辞めた。彼がようやく自分の存在に気付いて振り返り、音が消える。
少し残念だったがやっと教室に入ることが出来る。ずんずんと自分の席に向かうと黒髪が近くなった。
近くで見下ろしても、この黒髪に見覚えはない。学年が違うのだろうか。では何のためにここに?
色々と聞きたいことはあったのだが何となく黙っていた。できれば彼の声か、その音が聞きたい。
「これお前の?捨てられているみたいに置いてあったから、弾いちまった」
悪びれる様子など微塵もない。笑った顔は悪戯を仕掛けた子どものようだ。
差し出されたギターを黙って受け取る。それはいつも自分が愛用しているものだ。
だけど彼の手から渡されると何か別の違うもののように思える。これはあんな音を出せただろうか。
自分には出せない音を、羨ましいとは思わない。ただもう一度聞きたくて、じいっと彼の目を見た。
髪と同じ黒い瞳の奥を見る。色の付いたサングラス越しで見ると瞳の黒は余計に暗くなる。
口元に薄っすらと笑みを浮かべているその表情はどこか好戦的な印象を覚える。だが嫌いではない。
声を掛けてみたいと思った、だけど自分は彼の名前なんて知らないことに気付いた。
「高杉―・・・」
遠くから声が聞こえた。その声が呼ぶ名前に目の前の黒髪がぴくりと反応する。
簡単に視線をそらされて、彼は声の聞こえたほうを見つめる。
もう一度その声が聞こえると、黒い瞳がやんわりと笑った。薄い唇が綺麗に弧を描く。
その笑みは今の自分では確実に描けないものだと思った。
「悪いな。鬼に見つかっちまう」
「鬼?」
「そう、鬼。逃げてんの」
高杉、と呼ばれた黒髪はひらりと机から降りる。音もなく床に着地する姿はまるで猫を思い立たせた。
これはきっとしなやかな黒い野良猫だ。首輪などは持たない自由気ままな猫なのだろう。
猫は教室を去ろうとしている。彼の名前を呼んでいたのは飼い主なのだろうか。
でもこの猫に決まった飼い主など居ないような気がした。
「たかすぎ、」
口にしてみるとその名前は意外にするりと口から零れた。
“高杉”は少し驚いた顔でこちらを振り返る。黒い目がしっかりとこちらを見ていた。
貴方の飼い主になりたい訳ではない。だけど自分も餌を与えてみたいと思った。
そう簡単に餌付けされる猫ではないと思ったけれど。困難は少しばかり多いほうが燃えるものだ。
「下の名前は何と申す?」
珍しく口元に笑みなんか浮かべながら、そう問うてみると驚きで丸かった瞳が切れ長に変わる。
廊下に続く扉からは、夕日が射さない。廊下側はもう黒い夜が訪れていた。
だけど彼の黒い瞳の奥にわずかに茜色が射すのを確かに見えた。
「晋助」
笑った顔を見て気付く、あの音は表情がなかったのではない。隠されていたのだ。
たった今見せられた彼の笑みにも何か隠れている気がした。
餌付けして手なずけるつもりが、軽くあしらわれてしまったようだ。
それどころか罠にはまったのは自分のような気さえした。もうきっと逃げられない。
「高杉、ってアレ。違ったか」
後ろの扉から顔を覗かせたのは先ほど聞こえてきたものと同じ声をしている人物だった。
よれた白衣にやる気のない目に少し見覚えがある。国語教師の坂田だ。
自分のクラスは受け持っていないが、その怠惰な仕事ぶりは校内でも有名な教師である。
そんな教師がなぜ彼を追いかけているのか。鬼ごっこに付き合ってやるようなノリの良さはこの男にはない。
ではなぜだろう。夕暮れ時の教室、生徒の数もまばらなこの場所までわざわざ足を運ぶ理由とは。
面倒くさそうに頭をかきながら辺りを見回す教師の瞳に、普段では見たこともないような輝きを見る。
おんなじ目の色を、つい先程見たような気がした。
「晋助なら」
先程呟いた苗字よりも幾分か言いづらい気がしたが、どうしても下の名を使いたかった。
その名前に国語教師の眉がぴくりと反応するのを目ざとく見つける。予想通りの反応に笑いそうになる。
「そっちに行ったでござる」
前の扉から続く廊下を指差しながら言う。彼もそちらの方向を見た。
既に暗くなっている廊下は黒い。きっと晋助は闇に溶けてしまって見えないのだろうけれど。
胡散臭い目を向けてくる国語教師にまた笑いそうになったが、無表情を装った。
サングラスと感情を表さない顔のせいで、周りからはよく何を考えているのか分からないと言われる。
だがおそらくこの教師には自分の考えていることが見えているのではないかと思った。
「ふぅん・・・そりゃどうも」
最後の言葉は嫌に低く呟かれた。そして沈んだ声と共に教師も闇へと溶けていった。
サンダルを廊下に滑らせているだらしない音が消えると、教室はやっと静寂に包まれた。
手に持ったままだったギターを見下ろす。それと同時に先ほどの音を思い出していた。
おそらく教師は晋助の飼い主ではない。やはり彼は主など持たないのだろう。
ふらふらと鬼をかわして逃げながら遊んでいるだけだ。それでも彼は嬉しそうに笑うのだ。
ヘッドホンをつけて音楽を流せばその空間は自分だけの世界だった。
サングラスをかけているのも、無表情を保っているのも、好きでやっているわけではない。
他人が自分の世界に侵入してくるのを防ぐのに、好都合だったから続けているだけのこと。
そう易々と他人に自分の考えていることを知って欲しくなかった。
それがどうしたものか。
気付けば突如現れた黒髪に侵入を許したどころか、彼を知りたいと思ったし自分を知って欲しいと思った。
詳しく言えば彼の音を知りたいと思った。今ヘッドホンから流れている音楽よりもよほどいい曲だった。
もう一度聞きたいものだ。そう思いながら弦を弾くと、いつもとは違う音のような気がした。
再現することなど出来ないだろう音を思いながら、それを模倣するのではなく感じたままに弾いてみる。
教室の窓から見えた景色には、まだ夕日の赤が残っていた。眩しくないのに目を細めた。
さて、いい曲が出来そうだ。
完成したらまず晋助に聞かせようと、ひとりで勝手に決めていた。
感情の赴くままに弾いた音に色を付けるとすれば赤がいい。
それは茜色の赤音色。