だが断る
昼間なのにどこか薄暗い雰囲気の廊下を、地木流は踵をがつがつと鳴らしながら早足と駆け足の中間のような歩き方で足を進める。
雷門との練習試合で負けてから、地区予選でのリベンジに向けて部員の皆さんの士気も上がって来ているというのに、当の顧問が練習を抜け出すなんて一所懸命なあの子たちに失礼じゃあないか。
下らない用件だったらすぐに灰人に代わって貰おう。
そう考え前髪を整えながら、地木流灰人は客人の待つ応接室の扉をノックした。
向こうから聞こえる返事に扉を開く。
「いやあお待たせしてしまって申し訳ありませんね。尾刈斗サッカー部顧問、地木流灰人です」
「いえいえ、こちらこそお忙しい中突然伺って申し訳ない」
忙しいって分かってるならせめてアポくらい取れ。
心の中で毒づいて、それでも表面だけは笑顔を取り繕って地木流は革張りのソファに腰掛けた。
だが断る
相手は近年の尾刈斗中の躍進は素晴らしい、だのこれも地木流監督の指導力の賜物だ、だのぐだぐだとどうでも良いことを勝手に喋り続ける。
……私が此処に赴任してきたのは今年からなんですがね。
灰人なら間違いなく口に出しているであろう台詞を胸の内だけに留める。その程度も知らない奴にうちの生徒たちのことを語る資格なんて無い。ああくそ、全く以て不愉快だ。
脚を組み直し、前髪に伸びそうになる手をぎゅうと一度握りしめて、本題を問う。
「そのように言って頂けて光栄です。……ところで、そちらの用件は?サッカー協会の方が直々に来られるとは、重要な用事なのでしょう?」
「ええ……そうですね。本題に移りましょう」
…………
「要するに、副会長であるあの影山先生のスパイになれ、と」
「いやあそういう言い方をされるとまた。なに、少しばかり我々の計画に協力して頂けないか、というだけですよ」
馬鹿らしい。何が協力だ。
こんなもん計画なんて大それたことを言っていてもただの八百長だ。
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべる男が一枚の紙切れを鞄から取り出す。
ガラステーブルの上に置かれた誓約書と書かれたそれは手に取らず、ざっと内容だけを確認する。
この”計画”に協力すれば担当校を本戦ベスト8に入れることの約束、成功報酬としての少ないとは言えない金額、来年度から用意される協会の幹部候補としての扱い……。
「極々限られた優秀な方にしかお伝えしていない案件です。地木流先生にとっても、ここのチームにとっても……悪い条件では無い筈ですが?」
「……そうですねぇ」
考える、フリ。
そんなもの、最初から答えは決まり切っている。
「…………ええ、分かりました」
そうして私は荒く前髪を掻き上げた。
「分かって頂けますか!それでは早速此処にサインを……」
「手前ェらが最ッ低の屑野郎だっつう事がだよ!!糞がッ!!!」
男が差し出す書類に踵落としを一撃。厚いガラスにピシリと細かいヒビが入る。間一髪で手の甲への直撃を避けた男はひいっと引き攣った声を上げて後ずさる。
「下らねえ下らねえ下らねえ!糞つまんねえことで貴重な時間取らせやがって!!どう小細工しようがフットボールフロンティアで優勝するのはこの尾刈斗中だ!!分かったら二度と姿見せるんじゃねえ!!」
「……っ!!断ったことを後悔しますよ!」
散らばった資料をかき集めながらそんなへっぴり腰で言われても不愉快以外のどの感情も湧いてこない。
「とっとと失せろ」
男は顔を歪ませて、急ぎ足に応接室を出て行った。
塩でも撒いてやろうかと思ったが生憎呪術用の塩は部室で黒上が管理している。
後ろ姿を見送って前髪を整え直し溜息を吐く。
「はあ……私、そんなにナヨっちく見えるんですかねえ」
いくらなんでも馬鹿げている。ふざけ過ぎている。断れないように見えたのかもしれないが、誰があんな計画乗るもんか。
……にしても、優勝するのは尾刈斗中だーなんて、大それたこと口走ってしまって。はあ。
地区ではそれなりに強豪と言われるが、今年は各校どこも去年とは比較にならない力を付けてきている地区予選、正直今の実力では本戦にも出られるかどうか……チームのこんな現状も声を掛けられる一因としてあったのだろう。
「……猛特訓、ですねえ」
生徒達からも声が上がっていたし……元々そのつもりでしたけど。
練習中に呼び出された為にそのまま持ってきていたトレーニングメニューを先程自分が蹴ったガラステーブルの上に置いて、胸ポケットからペンを取り出す。
「ええっと、まず基礎トレ増やしますかね。今までのランニング校庭15周から30周、そのあと各筋トレメニューを10回3セットから……んん、とりあえず5セットに増やしましょうか。それと……」
今までの数字に赤線を引いて、その上に訂正。
……うん、これでいいでしょう。と地木流灰人はひび割れたガラステーブルを残し足取り軽くグラウンドへ戻って行った。