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それではやさしい嘘を

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「トムさん。トムさん」

 平和島静雄が田中トムを呼ぶ声はとても恋人を呼ぶ声ではなく、陰鬱なまでに沈んでいる。
 その声音を聞いて呼ばれた本人は、静雄に背を向けたまま眉を顰めた。

「なに、どした?」

 ただでさえ低音域の地声を持つ静雄が、なんらかの悩みに引っ張られて声を更に低くするのは珍しいことではない。見えないように眉を顰めたトムからすれば、またかとすら思う頻度で。
 何がトリガーだったかと首をひねる思いで、できるだけ柔らかな声を意識して出す。
 静雄のことをどれだけ大切に思っていて、要するにどれだけ愛しているのか、いくら心と言葉を砕いて伝えようとしても、静雄は理解しない。理解しようとしない。そのうち、まるで駄々を捏ねる子どものように、でも、だってと言い訳めいた言葉を捏ねるばかりになる。
 今回の静雄は、ついさっき軽く唇を合わせたときには悩んでいるような素振りはなかった。
 本当になにがトリガーなんだか分かりやしない。

「トムさんは、俺のこと、好きですか」

 表情筋のコントロールには自信がある。それから感情のコントロールも。にも関わらず液体窒素を吹き付けられたようにトムは表情を凍りつかせた。
 トムのその変化を見た静雄は、伝染したのか、トムと同じように表情を強張らせる。何か良くないものを飲まされたような不快感がトムの腹の底へたまっていく。

「好きだよ」

 沈殿する澱のようなそれは、きっと静雄に対する苛立ちなんだろう。そう結論づけてトムはひとつおおきく深呼吸をした。静雄を傷つけることはしないと決めた。できるだけ。できる限り。だから、空気を飲み込み意識を切り替える。
 優しい声をだせ、伝わらなくてもいい、でも伝えることを放棄はしない。だから優しい声を。

「好きって十回言っても分からないなら、百回言う。百回でもダメなら千回だって一万回だって言ってやる。言うけど、さぁ。俺のことを少しは信じてほしいもんだ」
「……や、あの、信じてるとか、信じてないとかじゃ、ないんす」
「うん?」

 静雄の目はおどおどと揺れて視線を定めない。トムの視線はじっとそんな静雄に据えてある。
 視線があまりに合わないと拒絶されているような気になる。拒絶なんてされてしまったなら、静雄を更に傷つけてしまうかもしれない位には、執着しているというのに。
 好きかと問うなら、勘違いさせるような態度を取らなければいい。静雄が悪い、静雄も悪い、そこまで考えるのは腹の底にある澱のせいだ。
 
 静雄とやっと目があったかと思えば神にでも祈っているような、縋る視線。
 静雄がトムに懇願する。
 
「お、れは、トムさんが、俺のことを、嫌いになったら、いってほしい、んです」

 震える低い声は赦しを請うような。
 少し前には全く重なることのなかった視線が今はぴたりとあっている。
 静雄が言いたいことを言うことができているとトムは判断し、静雄を見つめたまま真顔で相槌をうつ。

「……嫌いになったら、だな?」
「はい、うまく、いえないんすけど。トムさんは、俺に優しい、優しすぎるから」

 静雄の心配は杞憂だ。
 遠い未来、落ちてくるかもしれない空のことを思って悩むくらいには馬鹿な考えだ。トムは「静雄を嫌いになることがあるかもしれない」などとは考えたことがない。だから静雄の考えが理解できない。

「今の俺はここにいて、静雄が好きだって言ってるのに」
「……未来のことを約束、するようなのは、トムさんじゃないじゃないですか」
「なにそれ」
「トムさん、らしくないですよ」

 確かにどうなるか分からない未来のことを確約するのはトムの性分ではないかもしれない。
 だとしても、将来的にお互いの心が離れたとして、嫌いになるのがトムの側だと断じる静雄が許せない。

――嫌われるのは、俺のほうかもしれないのに?

 未来を信じることが出来ないなら、未来の俺も信じなければいいのに。俺が優しいから、などと言うくらいなら未来の俺を信じてくれればいいのに。
 そう思いながら、トムは全く別の言葉を口にする。優しい声、優しい口調、静雄への愛情をこめて。

「わかった、嫌いにもしなったら、そう言うわ」
「……はい」

 ほっとしたような、それでも悲しそうな顔をする静雄にトムは内心で歯噛みする。どう言われたいんだ、と。
 静雄が受け止め切れないトムが注ぐ愛情は、虚しいくらいあたりに溢れ零れている。溢れてもいい。納まりきらなくたっていい。ただ、注ぎ続けたいから、愛したいから、注いでいるだけ。

「嫌いになったら言う。今は好きでいさせて」

 嫌いになんてなれない。なってやらない。だからこれは嘘。静雄のための嘘。伊達や酔狂で"池袋最強"と恋人になどなれるものか。それがトムの本心。
 田中トムという男は、十年前の出会いから今まで、いくつも、何度も、平和島静雄が"池袋最強"である理由を見てきている。一年間だけの先輩から、上司になり、友人になり、恋人になり。
 平和島静雄に近づいて、どれだけ静雄のことを知っても、それでも嫌いになっていない。却って想いは強くなっていく一方なのに。

「な、今は。……好きでいさせてくれよ」

 静雄のことを嫌いにはなれない、だから、これは嘘。
 やさしい声で、やさしく呟かれたその嘘は、静雄に微かな微笑みをもたらした。



作品名:それではやさしい嘘を 作家名:iri