沼
ここまで来た、と思う。
だがその先に一体何があるのかまだ知らない。掴み取らなければいけない現実はいくつもあるし、その中に血も涙も置いてきた。だけどまだ怖いのだ。これが無くなったら何が残るのだろう。何が出来るのだろう。
ここから先、がわからない。
帰りの飛行機の中は嫌に穏やかだった。皆目は赤いし腫れているのだが、誰一人としてそのことを指摘しようとはしない。列を挟んで向こうの裕次郎は永四郎の肩を借りて寝た振りを決め込んでいるようだが、それが振りだというのは誰の目に見ても明らかだった。永四郎自身は本土に来てからずっと同じファッション雑誌ばかり読み込んでいる。隣には凛がいた。昨晩から一言も言葉を交わしていない。痛いくらい澄んだ金髪が規則正しく上下しているところから凛は本当に寝ているのだろうと思う。横に並ぶ凛との間たった数十センチが気の遠くなるほど離れて見える。この細い背になんと言えばいいのか。言葉が見つからなくてなんとも胸が苦しい。きっと口を開けば謝罪しか出来ない己の結果を、凛も俺も痛いほど実感していた。もうずっと口を利かないそんな予感がする。小さな窓から見える自身の故郷が懐かしく思われる。うんと遠い空を覆いこむように雲が静かに増える。夏が来る。終わったばかりの夏なのに、まだ訪れてもいなかったと言うのだから、俺は一歩も動けない。
帰ってから数日は浜でお互いに顔を合わせあった。永四郎があまりに水しぶきを嫌がるので裕次郎がかえって面白がり水を掛ける。それが俺にも逸れてかかるものだから、柄にも無い二人の空騒ぎぶりに嫌気が差した。慧は来たときからずっと寝ている。俺もあのように振舞えればと思う。だがそれは出来ないとも思う。
(凛は、何処に)
今まで黙って水を被っていただけの俺は急に立ち上がると脱いだままのサンダルを拾って歩道へ歩き出した。慌てたように裕次郎が後ろから問いかける。
「やーどこ行くさー?」
「けーる」
「あったになんだばあ? ぬーが?」
「別に、」
言葉はそこで急に萎んで掠れてしまった。その先に何が言いたかったのか俺はわからない。
凛の家の前まで来て結局俺は引き返した。
夜が狙うようにして膿んだ傷口をじくじくと腐らせた。目が覚めるとすぐに俺は外に出られなくなり、安い扇風機を回しただけの静かな部屋から伸び行く雲を覗くだけとなった。そんな生活がまた数日続いた。臆病になったと思う。凛の疲れたような後姿が目の前をちかちかして離れない。凛を元気にしたいと思う。それは同義で失いたくないと思うことだった。負けたら終わってしまうことを恐れていたのは誰よりも俺だ。凛は一言で言えば流浪だった。きっとダブルスが終われば自然と疎遠になるに違いなかった。だがもう手放せない。わかっていてもその一言を拒絶されることもまた恐れている。やはり臆病になったと思う。役に立たない巨体と覚悟の足らない前髪と。力任せに丸めて屑篭に捨ててしまえたらどんなにか楽だろう。
玄関を開けて早々人の腹めがけて拳をあらん限りの力でぶつけて来た裕次郎に俺は防戦するので精一杯だった。泣きそうに震えている拳が俺の掌の中で急に力を失うとそのまま崩れる。
「なんだばあ」
「やーあんしムカつく・・・」
「ぬーがやーが泣いてるよ」
裕次郎の背からは久々に窓枠以外から降り注ぐ殺人的な太陽光。今の俺には少し眩しすぎた。数日振りに見る友人の髪がなんだか異様に懐かしく思え、裕次郎の外はねの酷い髪を見たら滑稽さが際立ち可笑しくて自然と笑いが零れた。
「泣くな」
諭す兄のように頭を叩くと生意気に裕次郎は俺を睨み上げた。左手が必死に俺の腕をどかそうと足掻くのだが生憎その程度で退くほどの器量よしではない。ようやく諦めた裕次郎は一度口篭ってから何かのおまじないかと思うような声で凛、と呟いた。
「やー、凛に会ってないだろう」
「だからどうしたよ」
親しき友人が凛の名を口にするのに妙な苛立ちが混ざって、返答はどうしてもぶっきらぼうなものになってしまう。
「凛、でーじ淋しがってる」
凛のことを考えない日はなかった。だがそれは嫌われた、逃げられたそういったネガティブな思考が元で、凛が予想に反してそんなことを言っているとは夢にも思わなかった。元気にしたいと、笑顔が見たいと願っていたにも関わらず。
「凛が、」
「やーぬこと心配してるさあ」
蜃気楼のように凛の姿が揺らいだ。あの細い背に掛ける言葉を俺はずっと捜している。目隠ししてそれでももがいて傷口は膿み続ける。大体、と俺は思う。
「わんが・・・どんな気持ちでいたと思って・・・」
「それはやーだけじゃないさ!」
家へ行けと裕次郎は言う。俺もそろそろ日の光を浴びてまっとうに生活してみたいものだと思う。凛の家へは浜を通らなければならない。そこで永四郎や慧にも会うだろう。
玄関を開けてからすぐに拳をぶつけるのが流行っているのだろうか。凛も凛の金髪がちらっと見えたと思ったらものすごい速さで拳が飛んできた。背が低い分それが裕次郎より見え辛く一歩間違えば本当に腹に直撃していた。凛の拳は震えていなかったので俺はなんとはなく安心する。
「でーじ久しぶりだばあ」
謝るのは違うと思う。まず凛には元気な顔をして貰いたかった。こんな泣き出しそうな顔をしてもらいたいわけなど一厘もなく。震えていないだけで本当は裕次郎以上に凛が泣き出したいのは明らかだった。ただプライドの高い凛はそれをしないだけのことだった。
「やーぬ球は最強だったさあ・・・今まで、ありがとう」
俯いた凛が動いたかと思うと今度は先程と逆の拳が飛んできた。反射でそれも受け止めるが、威力は最早受け止めるほどでもなく、凛はそれを弾みに笑い出した。
「やーはまず携帯を買え!」
涙できらきらとする凛の瞳は何よりも美しかった。あんなに膿んでどうしようもなかった傷口が急速に乾いていくのがわかる。抑えていた気持ちが溢れ出してしまいそうだ。
「今まで、じゃない、これからもよろしくさー」
玄関ではなく上がらせて欲しいと頼む。すると凛はそんなことになる気がしていた、と言った。暫くしてからキスをした。寛は考えすぎる気があるね、と散々笑われてからようやくからかう様にもう一度、キスをした。離れたくない。この長い手足で小さな凛を雁字搦めにして永遠に閉じ込めてしまいたい。逃げないで欲しい。凛を元気にしたい。流れていくのもわかる。ただ、最後は俺の元に。
気がつけばもう夏は終わる。