一酸化炭素中毒
練習が始まるまでまだ一時間半ほどあった。こんなに早く来ても、元希さんの居ない練習場などなんの意味もなかった。それでも俺が早くにここを訪れるのは、一つに母親の顔を見たくなかったこともあったし、弟に小さなことで八当たりをしたくなかったこともあった。ようは家族の顔さえ見なければなんでもよかった。母はよほど鈍感なのか、そんな長男の反抗期に未だに気付いてはいない。寧ろ弟の方が敏感なように思える。それでも何も言ってこない。きっと何処の男兄弟もそんなもんなんだろう。家族は、野球をやる糧として完全に割り切っていた。(俺は、今は、元希さんが居ればそれでいいや)元希さんへの想いを語るとしたら、一言で言えばそれは恋に似ていた。あの人は俺の欲しいものを何でも持っている気がした。あの人の球を取れるのならば、俺はきっと俺の行きたい所へ近づけるのだろう。でも、元希さんはいつも悲しい顔をしていた。それだけが、俺の中でしこりのようにつっかえていて離れはしなかった。俺に球をあてても平気で居る元希さん。なのに、たまに見せるその表情は、誰のものなのだろう。元希さんの前に立つといつも体が震えた。傷つけられることを望んでいるはずなのに実際にそうなるまでには溝を感じた。今までに一度だってこの恐怖を乗り越えられたことはない。俺が元希さんの球を取ることによって、少しでも元希さんの表情が和らぐならそれでいいと思っていた。元希さんには、幸せであって欲しかった。
取り留めのない考え事をしていたら、なんだか頭が痛くなってきたので頭を上げた。ぼんやりと白んでいる部屋の窓はどれも閉められていて、そのとき初めてこの部屋は完璧に密室なのだと悟った。頭が痛くなってきたというより、気分が頗る良くないのだ。吐き気がする。今朝飲んだ牛乳の所為だと思いたかった。慌ててうまく動かない体で窓を開けようとしたが、思うように動かない体は腕をほんの少し上げただけでその機能を停止してしまった。普段あれほど機敏に動いているとは想像しがたい。俺は涙目で咳き込んだ。やべえ、真剣に。俺、死ぬのかな。どうなのかな。死ぬ、と考えたとたんにふっと気が楽になった。やっと、元希さんから解放される。そう思うと急に込み上げて来るのは安堵より寧ろ不安や、懺悔や、後悔や、そういった後ろめたい思いだった。全てを開放したくて、俺はもう目を閉じた。やっぱり、俺は元希さんが好きなのだ。いけない気持ちだと思ってもそう思わずにはいられなかった。
乱暴に扉の開く音がする。血相を変えた元希さんだった。薄目を開けてそれを確認した俺を、元希さんは無慈悲にも胸倉を掴んで起き上がらせた。綺麗なつり目が、真っ直ぐに俺を睨んでいる。怒られることは明らかなのに、俺はその顔を美しいと賞賛せずには居られなかった。
「死にてえなら死んじまえよ、そんな勇気があんならその勇気で俺の球に向かってこいよ、ざけんな!」
別に死にたいわけじゃなかったんだけどなあ。そう思って、乾ききった唇をなんとか動かした。苦しい、と元希さんの腕を払おうとするがうまく力が入らない。
「・・窓が、開いてなかったんです・・・俺のせいじゃ、ない、で・・す」
多少咳き込みながらもなんとかしゃべった俺に元希さんは怒りよりも優しさを見せた。それに返って動揺している俺をようやく解放してくれた。元希さんはやっぱり俺を真っ直ぐ見つめて、何を思ったか抱きしめてくれた。
「俺の所為で・・・死んじまうかと、思った」
搾り出すような声だった。俺はもう何も要らないと思った。今、すごく幸せだ。愛する人に、心配をされている。俺の、愛する人に。死にたい。死ぬなら、元希さんのために死にたい。心からそう願った。でも、そのためには生きなければならないということには気付いている。
「もときさん、」
「俺のこと、嫌いになったのかと思った」
「そんなわけ、ないですよ、すきです、すきです」
この人、淋しがり屋だ。そう思うとなんだか笑えた。元希さんはすぐに立ち上がってそのすんなりした体で窓を全開にしてくれた。寒いとは思ったが、新鮮な酸素は思った以上に気持ちが良かった。
(すきです、)繰り返した言葉の意味を、俺はひたすら考えた。そうして、こんなどさくさみたいんじゃなくてきちんと伝えられる日が来れば、今度はそれがまた俺の幸せとなる、と思った。元希さんは部屋を出際、自分のジャンパーを渡してくれた。たまに見せる優しさ、そんなものにぐっと来る。
「元希さん!」
体はまたきっと震えるのだろう。人間は本来恐怖を超えられない生き物だ。それを支えるのは、愛。
「体冷やすなよ、また一酸化炭素中毒なんて洒落にならねえ」
元希さんの声は酷く甘美だ。