天井桟敷
「濡れた頭で歩き回るな、光也。夏じゃないんだ」
慶は立ち上がり、少し怒ったように、乱暴に俺の髪を引っ張った。痛い、というのと同時にまた雫が落ちた。 俺の手に握られている瀬戸がそっと持たせてくれた西洋手拭を頭の上にかぶせる。大分大きい慶の掌の温もりが心地よい。
「何すんのさ、慶、」
「お前、あのメガネ君の家で何を学んでいるんだ? あの家では髪一つ乾かしはしないのか?」
「そんなことは!」
そういって反論した後、俺はあとに続く言葉がないことに気付き、愕然とした。そう、そんなことはない。執事の瀬戸は仁付きの執事と当たり前のことだったので決まって仁の頭は瀬戸が触った。力を入れすぎず、軽い会話で楽しませているうちに猫っ毛の仁の髪はすぐに乾いた。俺は家の女中に髪を触らせるのが嫌で、その横に立ち尽くし独りでわしゃわしゃと掻き回していた。(よく考えるとこの光景はえらく惨めだったのかもしれない)
「どうした?」
慶が、言い過ぎたと反省したのか、人の顔色を窺うようにそう尋ねた。俺は、もはや上の空でなんでもないよと言った。言った後で俺は、一体何がなんでもないのだろう。そう考えた。
(なあ、みつ。お前、髪の毛乾かすのと、されるの、どっちが好きだい?)
あの時のどうでもいいような仁の問いかけが頭の中を過ぎった。あの時、仁は一体どんな声色で、顔で、瞳で、あの言葉を呟いた? その横で瀬戸がどんなに切ない表情を浮かべていたことか! 俺は結局怖くなって逃げ出した。仁の想いも、瀬戸の嫉妬も、今の俺にはまっぴらだ。どうした、と慶はもう一度問いかけた。ようやく、俺はその言葉に答えることが出来た。
「慶、頭、乾かして」
「は、どうして俺が、」
「いいから!」
ヒステリックだな、お前。慶はそう皮肉を零してからそっと、優しく俺の髪を触った。男にしては伸びすぎの黒髪から、石鹸の匂いが立ち昇る。慶がそこに鼻先を近づけた。走ってきた割に濡れている髪は艶々と輝いているように思える。
「光也、お前いいにおいがするのな」
「え」
あからさまに俺は照れた装いをした。慶に褒められると何処となく嬉しい。だがしかしすぐに、このカフエーの女中にも同じようなことをしているのではないかという考えが過ぎり、幸福はあっという間にしぼんだ。慶は力任せにわさわさと俺の頭を揺さぶった。痛えよお、と主張する俺に対して、慶はそうかあ、と誤魔化した。
下の階から、女中のお菓子食べますかあ、と照れたような、間延びした声がした。今行く、と答えた慶の手は俺から離れていった。淋しい。そのような瞳に気付いたのか、慶は決まり悪そうに外を眺めた。やがてその顔が困った風に変わる。やかましい声から察するに俺を迎えに来た仁だろう。また慶に手を上げたりしなければいい、とその頭痛の種に眉を顰めた。