名前さえ呼べずに
前に正臣が『吐気がする。』と言っていたけれど今の僕はまさに吐気がしていた。
弧を描く唇は毒々しいほど赤い。瞳を細めて僕を見るその視線は、まさに捕食者だった。
「わからない?」
何度もそう問われた。
そして僕はまた頷く。わからないし、わかりたくもない。
「愛しているよ、と言ってるんだ、君をね。」
その表情は変わらない。
口だけが形を変えて言葉を紡ぎだす。
時折チラチラ見える赤い舌が彼の顔をまるで爬虫類のように思わせる。
「…んで、・・・。」
口内がカラカラと乾いている。
『なんで』と言いたかったはずなのに、それさえ叶わない。
「え?」
彼は心底楽しそうに聞き返した。
「なんで?なんでってい言った?はは、なんで?どうして?なぜ?その問いかけ自体無駄なことは君の方がよく知ってるでしょ?」
「人が人を愛するのに何か理由が必要だったっけ?」
…この人も『人』に分類されるんだ。こんな状態でそんなことを思う自分に苦笑する。
彼は、んー、と考える仕草をしてすぐに両手をあげて『降参』のポーズをした。
「やっぱり君を愛する理由なんて見つかりはしないよ。…まぁ、敢えて言うなら君が平凡でつまらない男子高校生だから、かな。」
そんな奴この世には腐るほど居る。
適当なその理由に怒りは浮かばないけど、やっぱり疑問だけが残る。
「わからない?」
また、そう問われ、僕は頷く。
此処で初めて彼は爬虫類のような笑みを崩して、少し困ったように苦笑した。
「…世界中の人間を好きになっても、世界中の人が自分を愛してはくれないだろう?まさにそんな感じだね、こっちは好きなのに、向こうは嫌いなんだ。」
饒舌になっていくうちに彼は気分が高揚したのか立ち上がり両手を広げる。
「でも構わないよ、知らないうちに嫌われたって…でもいつも思ってたよ俺も、『なんで?』って。」
「でも君は言ってくれたじゃない、『嫌いじゃないです』って、ね。」
「嬉しかったんだ、たぶん。俺でさえ自分が大嫌いだったのに。」
そう言って頭を撫でられた。その感覚になぜか背筋がゾワリとした。
「っケホ。」
口の中がさっきからカラカラしていて痛い。
頭もグラグラして体も熱い、まるで高熱が出ているようだ。
そんな僕を見て彼は「エロい顔」と笑った。
ソファに座り、僕に視線を合わせ、彼はまた爬虫類のように笑った。
「さて、問題です。なぜいま君は縛られているわけでもないのに体が上手く動かないのでしょうか?さらに、目の前に霧がかかったようになっていて、酷く喉が渇くのでしょうか?」
「・・・?」
彼が何か言っている、のに、よく聞こえない。
目の前がモヤモヤしていて、その声はとても遠くに聞こえる。
彼が僕に近寄り、「アイスコーヒーは美味しかった?」耳元でそう聞こえた
喉がからからになったところに水が送られる。
コップの感覚ではない生ぬるい水に僕は夢中になって貪った。
何度も繰り返され、口内を滑ったものが這う。その感覚はゾワゾワしてもどかしい。
飲んでも飲んでも喉が渇く。
「…っと、・・・し…。」
僕がそう強請ると、彼の表情が嬉しそうに歪む。
「ちゃんと理解してもらってからにしようと思ってたんだけど…『わからないなら体にわからせるまで』、とか言うんだっけ?こういう時。」
「愛しているよ、帝くん。」
ぼんやりとした意識の中ではっきりとその声だけが響いた。
「ぃ、ぁやさ…。」
彼の名前を呼ぼうとして、やはりそれさえ叶わない。
平凡でつまらない日常を飛び出したかった。
けど、こんな出来事が待っているなんて僕が天才だったとしても予想できなかった。