最後の記憶
また、記憶が増えてゆく。そう、これが ─── …
お前の傷んだ髪の束を思いっきりひっぱったりしたら、お前は喜ぶんだろうか。きっとそれはそれで喜ぶのだろうと思ってから俺がそれを実行しないことはわかりきっていた。そんな些細な妄想のお陰でこの気持ちが晴れるのなら俺はそれをくぐもった硝子瓶に閉じ込めて永遠に俺だけのものにするだろう!
うへえ、すげえ雨の匂い。浜田が嬉しいんだか嫌なんだかよくわからない顔をしたので俺はあめ、と呟いた。浜田にとってどっちだかわからないものに俺は素直に反応しかねたからだった。雨の匂いってすぐわかるんだよなあー、 屋上のコンクリートが濡れているのが俺は純粋に嫌だったのだが、浜田が存外それを気にしたふうでもなく俺の体を押し倒したので、俺は頷く。雨の匂いって、夏の匂いみたいで俺は好きだな。そういった俺を浜田は軽く笑って、頭をぐたぐたに撫ぜまわした。夏の匂いって、どんな匂い? え、だから、それは雨の匂い─── … 、
「俺は、泉の匂い」
おい、馬鹿、放せよ! 俺が抵抗を見せたところで全ては遅かった。おっかしいなあ、こいつ、今日熱でもあんじゃねえの? いつもなら押し倒した後に、頭を触ったりしないし、余計なお喋りはしない。もう面倒くさいからさっさと抱いちゃってくれよ、いつもみたいに。(まるで浜田がその先に紡ごうとしている言葉が、)(怖かった)
例えばきっかけはほんの小さな、割れた硝子の破片みたいなもので、彼のしなやかな右腕が放るボウル球が羨ましかった。ただそれが始まりだっただけだ。どうして気持ちがこんな、洗濯したばかりのワイシャツみたいな白さで、膨大に広がってしまったのだろうと思ったけれど、思考は徐々に盲目に支配される。後に残ったのは、洗い立ての匂いのみ。
まただ、と泉が呟く。何が、と聞こうとしてすぐに雨だということに気が付いた。開け放したままの窓が廊下を勢いよく濡らしていたので先程まで降っていたであろう雨の強さが窺い知れた。うぜえ。泉は言葉を、必要最低限、周りの方しか発言しない。俺はその言葉をうまい具合に解釈して飲み下さなければならない。グラウンド、使えないから? 今日のにぎり、海老天だったのによお。妙に食い意地がはっているのはきっと今おなかでも空いているからだろうと思って俺はポケットから飴玉を取り出した。無言で受け取った泉が口にそれを入れてから、とびっきりの嫌な顔で、女みてえ! と叫んだ。飴はイチゴ味だった。すぐに二個目を欲しがったところからみるに、泉はこれを気に入ったらしい。泉、これ好きだった? いんや、好きになった。
(ああ、またこうやって思い出が増えていくんだな…)
好きだと言えないままでいた俺。これからもそういるであろう俺。そうして増えていくだけの泉の記憶。無意識に俺は泉を屋上に引っ張っていく。泉を抱くのはいつだって衝動的だ。俺が欲しいのは増えるだけの泉の影じゃないんだ。
彼は夏の日差しと野球のものだった。太陽は誰よりも彼を愛し、野球は彼に最高の贈り物を残す。俺にないものを持っている彼を愛することなんて多分無理だと思っていたのだけど、愛情が絡むとわからないね、本当に。特に人間ってものは。
「だから怖いんだ、」
え、なんだ。また雨が降ってきただけか。繰り返される、雨の記憶。これが、靄のように愛のように、
泉、なんだお前泣いてるの? 随分冷静に言ったつもりの浜田が実は泣いていて、なんだ。泣いているのはお前の方じゃないか、と言おうとして声が上手く出なかった。
だから、代わりに、雨だ、と俺は呟いた。目陰を差して、必死に瞳を隠す。もう最後にしてくれ、この言葉すら上手くいえたら俺たちは、
(知らないものばかりを愛したりはしなかった)