小さな火傷の特効薬
「熱いものに触っちゃった時は、日本人は耳に触るんだって」
最近何故だか日本の文化習慣その他諸々に興味が湧いたらしいミハエルが、そんなことを言いだした。
「耳、ですか…?」
何かのおまじないだろうかとエーリッヒは首を捻った。
耳、と自分の耳朶に触れる。
骨のないそこは、ふにゃりと柔らかくて、触れて気分が悪いものではないが。
「耳、ですか…」
耳などに触ったところで火傷が治るわけでもあるまいに。
日本人と言うのは不思議な習慣をもっているのだとまた首を捻る。
さっぱり要領を得ないエーリッヒに、ミハエルが笑った。
笑って、座っていた椅子から勢いをつけて飛び降りる。
ぶん、と振られた足が両足を揃えて着地して、それから紅茶を用意しているエーリッヒの手元に伸びてきた。
「ミハエル?」
待ちくたびれて取りに来たのかと思って、紅茶ならもう用意できますから待ってください、そんなことを言おうと思ったのだが、
にこり、
一度エーリッヒに視線を向けて微笑んでから、ちょんとティーポットに触れた。
「ミ……!?」
今さっき入れたての熱湯は、茶葉のうまみを引き出すためにしっかりと沸騰させたものだ。
多少は容器が熱をうつしたとしても、素手で触るには熱すぎる温度には違いない。
「あつっ!」
当たり前のごとくにミハエルがそんな声を出した。
エーリッヒは慌てに慌ててポットを掴んでずらして後ろに下げた。
急いで上体を屈めてミハエルの手をとろうとしたのだが、
にこり、
またしても微笑みがエーリッヒを出迎えて、エーリッヒの動きはそれに阻まれた。
ミハエルに掴まれた右手首を支えにくいと体を引かれて、ミハエルの右手が伸びてくる。
頬を通り過ぎて、さらに奥へと伸びて、
そして、
「ひゃ、……!?」
耳朶に熱を感じて、思わず声が漏れてしまった。
耳元を摘まれて、親指と人差指とで擦り合せるようにされて、
「あ、確かに気持ちいいかも」
何やら納得顔のミハエルに、何故だか顔に熱が集まるのを感じた。
思い切りおかしな声を出してしまった気がする。
「ミハエル、は、放してください…!」
「え?あ、うん」
ありがとう、何故か礼を言われた。
「だって、気持ちよかったし」
「……………」
じっと見つめる視線をひどく感じて、ふと視線を上げると、向こうの椅子に座っているシュミットがこちらを見ていた。
見つめてくるにも関らず物言わぬ視線に、何故だか少し怯んだ。
なんとなく、なんとなくだが、シュミットのこういう視線にはあまりいい予感がしない。
そして、その予感はあまり外れたことがない、残念ながら。
「………なん、ですか…?」
「……紅茶を」
くれと言われて、はたと気付いてティーカップを運ぶ。
視線の可否はおいておいて、とりあえずどうぞとすすめたカップを、シュミットはおもむろに手に取り、
「あ……、」
そんなにすぐに口をつけたらまだ熱いですよと忠告しようとした矢先、
「あ、つっ…!」
ぐいとカップを煽ったシュミットが顔を顰めた。
「ちょ、シュミット…!」
大丈夫ですかと身を乗り出した途端、ぐいと胸元を掴まれて、引き寄せられる。
ぺろ、
耳朶を舐められた。
「………!!」
硬直して動けないエーリッヒの耳元で、シュミットの舌が耳朶を嬲る。
舌先がちろちろと動いて、妙な感覚が這いあがってくる。
「〜〜〜〜〜!!」
耳を押さえて真っ赤になる自分をよそに、やがて離れたシュミットがミハエルと盛り上がっている。
「これは確かに、効き目があるかもしれないな」
「でしょ?日本人の習慣も、なかなか捨てたものじゃないね」
満足げな顔でそんな会話をミハエルと交わして、それから、何かいい事でも思いついたようにはたと手を打った。
「よし、もう一口」
(え?)
「ええ、ずるい、僕も」
(え?)
二人が同時に紅茶を口に含んで、
にこり、
両側から迫る最強の笑顔に、エーリッヒが逆らう術をもっていようはずもなかった。
「…………」
「………………」
「……本当に、」
「え?」
「効き目、あるのか?」
完全に呆れた顔でアドルフが、隣に座るへスラーに話しかけた。
いいように遊ばれているエーリッヒが気の毒で仕方ない。
が、あの二人に逆らえるはずもなく、まして、エーリッヒに逆らえないものにアドルフが逆らえようはずもない。
同意を求めての発言だったのだが、ふむと考え込んだヘスラーが、予想と全く違う答えを返してきた。
「試してみるか?」
「…え、……え?」
何を言ってるんだヘスラー、と名を呼ぶ前に、近づいてくる顔。
「………!!」
耳を食むように含まれて、赤く染まった顔がひとつ、部屋の中に増えたのだった。
2010.6.23