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リノリウムの乾いた床を

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目が覚めるとまず初めに嗅ぎ慣れない匂いが鼻についた。
未だまどろんでいる頭で考えた結果、この匂いは床仕上げ材のものだとわかった。
そういえば昨夜は夕食時にスペインが、明日は床を綺麗にしたいとか言っていたような気がする。
さわさわと風が通り抜ける。どうやら俺が寝ている間に扉と窓が開けられていたらしい。換気のためだろう。
それでもやはり、ひどい匂いだ。長い時間嗅いでいるとおかしくなりそうだ。

一応床を確認する。俺の部屋はまだ仕上がっていないらしい。
廊下へと顔を出すと益々あの匂いが強くなる。長くて広い廊下はぴかぴかに輝いている。
いったい何時間やっているのか。そしてこの廊下は踏んでいいものなのかどうか。
悩んでいると三つ隣の部屋からスペインが顔を出した。


「おはよーさん、今からロマーノの部屋も仕上げるから、はよ支度してなぁ」


いつもに増して機嫌が好さそうなその顔に首を傾げたが、とりあえず頷いて部屋に戻った。
このままここに居たらもっと匂いがひどくなりそうだ。さっさと部屋から逃げよう。
気付けば屋敷中がばたばたと騒がしい。みんなスペインが言い出したことを手伝っているのだろう。
いくら貧しくてもこの屋敷は広い。まさかスペイン一人で全部屋の床を磨くことはできない。
普段よりも強い風が通り抜ける。きっと全ての部屋の窓や扉が開けっ放しになっているのだろう。
屋敷中を風が駆け抜けて、あの匂いもびゅんと走ってく。その度に頭がくらくらする。

なんだろう、この感覚。



てっきり自室の床磨きを手伝わされるのかと思いきや、俺は部屋から追い出された。
匂いが凄いから避難しなさい、とのことだ。俺はもう乾いたらしい廊下をぺたぺたと歩いていた。
避難しろと言われても、今や屋敷中があの匂いだらけだ。何処へ行っても逃げられない気がする。
とりあえず俺は、最初に仕上がったという一階の書斎に来ていた。
ガキの頃に掃除をしようとしてぶっ倒した本棚があるこの書斎は、微妙に嫌な思い出のある場所だ。
ここも同じように窓が開いていて、レースのカーテンがゆらゆらと揺れていた。
乾いた床に触れてみる。滑らかな手触りになったそれはいつもより艶やかに光を映していた。
そのまま静かに寝転がった。真新しいそれからは、リノリウムが乾いて弱くなった匂いを感じる。
ぼーっと天井を眺めながら時折吹く風に前髪を揺らしていた。

随分長いことこの屋敷にいるつもりだが、何だか知らない場所のように思える。
普段はしない匂いのせいだろうか。考えてみたけどうまくまとまらない。
それどころか、思考がぐるぐると回るような妙な感覚に陥る。酔いそうだ。
風と一緒に流れてくるあの匂いが、ざわざわと嫌なものを運んで来そうで胸が騒ぐ。
眼を閉じても思考は止まらない。何もすることがないと考えばかりが先走って嫌だ。落ち着かない。
どうせなら俺も床磨きの手伝いをしていたほうが良かった。体を動かしていればこんなこと考えないのに。
理由も根拠もない不安に襲われる。あたまがいたい。ぐあいがわるい。きもちわるい。
ふ、と息を吸い込んで名前を呼ぼうとした、その時。


「ロマーノ?」


首を横に倒すと、部屋の前に立っているスペインが見える。呼ぶ前に呼ばれてしまった。
俺は瞬きだけでスペインに返事をしたつもりだったが、どうやら彼には通じなかったらしい。
少しだけ心配そうに眉を下げながらが、彼は俺のそばでしゃがみこんだ。


「どうしたん?酔ったんか?」


俺の髪を優しく撫でる手からはその匂いはしなかった。代わりにいつもの石鹸の匂いがする。
それがひどく落ち着く。泣きそうなくらいに、ほっとした。
スペインの手を取ってゆっくりと半身を起した。よく見ると彼の髪が少しだけ濡れている。
床磨きが終わって、シャワーにでも入ったのだろう。だからあの匂いはもう流れたのだ。
俺はスペインの肩に頭を預けた。そこで呼吸をするととても心が穏やかになった。
石鹸の匂いと、太陽の匂い、ちょっとだけトマトのあおい匂いもした。スペインの匂いだ。
眼を閉じるとスペインが俺の背中を優しく叩く。小さい頃ひとり泣いていた夜にしてくれたように。
ロマーノは甘えんぼさんやなぁ、とくすくす笑う声に、うるせぇ畜生がと心の中で呟く。
いつだって俺に安らぎをくれるのはこいつの存在だった。


「昼飯、何食べたい?」
「・・・・・・トマト」
「じゃあ捕りにいこかぁ」


リノリウムの匂いは、もうしない。
作品名:リノリウムの乾いた床を 作家名:しつ