コントラクト依存
ダンダンダンと力任せに殴りつけるような音は止むこと無く鳴り続けており、その只ならぬ状況に波江は不気味さにも似た怖さを覚えたが、それはすぐに消え去った。聞き覚えのある雇い主の声が、その音の中に織り込まれていたからである。すぐに立ち上がって、その音の発生源をつぶしにかかろうとした。
「なみえー、なみえさーん! な、み、えー!」
何度も何度も繰り返されるドアの叩音と、大声で自分を呼ぶ声に「何なの?」と驚き眉をしかめつつも、見ず知らずの不審者でないという事にとりあえずの安堵を覚えた。鍵が無くて入れないのだろうと判断した波江は、ドアを開けてやるために玄関に向かった。
「なみえ、なみえー、いざやくんだよ、開けてえ」
普段の様子からは想像もつかないような変貌ぶりを遂げた口調を訝しげに思うも、夜遅い時間である事もあり、飲んで酔っ払っているのかも知れないと思った。この状況からして十中八九そうだ。そう予測し、波江は呆れるしかない。
手早くドアを開けるや否や、臨也のコートが一気に眼前に飛び込んできて、フードに付いた白いファーが波江の鼻をくすぐった。ぼふっという音と共に上半身にかかる重さ。あまりにも突然すぎて、寝起きの波江には、瞬時に何が起きたのか判断する事は出来ない。
ぼうっとしている頭で考え、辛うじて働く脳細胞は最低限の動揺として適度な「あたふた」を演出させる事に成功したようだが、そんな事はお構い無しとでも言ったように、臨也は波江にひしとしがみ付いていたのだ。
「ちょ、ちょっと……臨也!」
「やっと開けてくれたー、波江さーん」
臨也は上機嫌に波江に抱きついて、半分体重を預けるように、ずるずると倒れ込みそうになる。
「な、何……飲んでるの?」
「うん、うん、でもー、波江のために帰ってきたんだよねえー」
背中を掴む臨也の手がニット生地を引っ張り、伸びてしまっては適わないと、波江は慌てて臨也の体を支えた。
臨也は、えへへー、と笑う。その頬は紅潮し、目はとろんとして、完全に出来上がっている。
「酒臭いわ。どれだけ飲んだのよ」
「いっぱい」
「全く……」
波江は面倒臭そうにため息をついた。眠気はもう一気に醒め、どうしようも無い酔っ払いの世話をしてやらなければと半ば躍起になった。
しかし、抱きついて靠れてくる臨也を自力で立たせようと試みるも、中々上手くいかない。
仕方が無いので、脇の下に手を通してソファーまで引きずって運ぶという方法を取る事にした。
「っく……重いわね……」
「んー」
かなり酔っているようで、寝ているのか起きているのかはっきりしない様子だが、それでも臨也は波江の体を離そうとしない。されるがままに、臨也の体はずりずりと引きずられて運ばれていく。片方の足の甲が床に擦れ、黒い靴下をフローリングが引っ張った。
「あーもう! 靴下脱げるわよ!」
「んー」
耳元で怒鳴ってやると少しは目が覚めたらしく、臨也は千鳥足ではあるが、歩き始めた。
しかし、波江にしがみ付く腕は解かない。
長身の男を運ぶのは思っていた以上に重労働で、波江はうっすらと汗すら滲ませながら、やっとの思いで臨也をソファへ投げ落とした。
ソファに座らせるために腕を無理矢理体から引き剥がすと、臨也は途端に不機嫌になった。
そのまま酔っ払い特有の大声で叫ぶ。
「なみえー!」
「何かしら!」
もはや何に対抗しているかも分からないが、波江も大声で答えた。
今日は日中からずっと仕事場に一人で放置されていて、しかもやっと帰ってきたと思った雇い主は見ての通りぐでんぐでんに酔っ払っている。その世話をさせられる波江は流石に苛々し始めていた。
「座る!」
「もう座ってるじゃない!」
「なみえも、俺の隣に座って!」
何がしたいんだろうと、ダダをこねる臨也をソファの前に仁王立ちになりながら見ていたが、あまりにもしつこいので、腕を掴まれたのをきっかけに折れ、言われるままに隣に腰かけた。
「――ほら、これでいい? 満足かしら?」
「うん」
重たい体を玄関から運んできた疲れがどっと押し寄せてきて、波江は息を吐いた。
「あなたね、少しは人の迷惑っていうものを考えなさい。大体、お酒を飲むにしたって加減ってものが…………臨也?」
少し頭を冷やしてもらおうと説教するため口を開いたが、途中で波江は異変に気がついてしまった。
「何よ……どうしたのよ」
臨也は、波江の腕を掴んで震えていた。俯いていて顔が見えないのだが、泣いているのかも知れなかった。
「なみえ、なみえ」
ただ自分の名前を連呼するだけの臨也を見て、波江は途端に胸に何かがこみ上げてくるのを感じた。
この様子を何処かで見た事があると思った。
「……何か、嫌な事でもあったの?」
臨也は答えない。代わりに、波江の腕を掴む力が増した。
「あったのね」
普段の悪い行いのせいなのよ、と諭してみても良かったのだが、そうしようという気にはどうしてもなれなかった。
そして波江は気付く。隣で震える姿。それを昔、自分の胸の中で見たことがあると。
寂しさと不安が入り混じって膨らんだ時、人は誰かに頼りたくなるものだ。
波江は無意識に、今の臨也の姿を幼いかつての自分と重ね合わせてしまう。
――こんなになるまで飲んで……お酒しか、頼るものも無かったのかしら。
波江はため息をついた。
臨也は暫く「なみえ、なみえ」と繰り返していたが、次第に落ち着いてきたようだった。
突然黙りこくったかと思うと、間を空けてから、今度ははっきりした声で請うように言葉を発した。
「波江」
敢えて波江は返事をしない。
「側に居て。ずっと居てよ――」
寂しい奴。
波江は胸が締め付けられた。
自分が弟に依存したがる理由と、根本は同じなのだろうと察した。
「分かってるくせに。そんな事」
いたたまれなくなって臨也を頭から抱きしめる。この人は時々子供だから、自分が守ってあげねばならない時もあるのかも知れない。
「……いいのよ。安心して、いいのよ」
愛情なのか同情なのかははっきりしない。だが、それで良かった。どうせ臨也は酔っているのだから、と言い訳を胸の中で呟いた。
「ずるいのよ。あなた一人が寂しいんじゃないのに」
臨也の不在から来る寂しさを紛らわせるために仮眠を取ろうとした、2時間前の自分を思い出す。
デジャブは重なるのに、どうしてすれ違ってばかりなのだろう、と泣きたくなった。