優しい静寂
部屋の窓を開ければ夜がふわっと流れ込んできて、アリスは目を瞑ってその空気を吸い込んだ。春の匂いを孕んだそれはひんやりと心地良い。ネオ・ヴェネツィアの街はまだ所々明かりが点いているけれど、夜の色はすっかり濃くなり辺りは静寂に包まれていた。
「何してるの?」
扉が開いて、部屋に入って来たアテナ先輩が言った。濡れた髪にタオルをあてがっている。湯冷めしてはいけないので、アリスはそっと窓を閉めた。
「なんだか、眠れそうになかったんで、気分転換をしようと思ったんですけど」
「うん」
「春の匂いがして、逆に気分が高揚するというか」
「うん」
窓の外を見つめながら、ひとり言のように呟く。アテナ先輩は流しの方に向かって何やらカップを取り出したりしているようだ。アリスは構わず続ける。
「春、って大好きなんです。新しく何かが始まる、そんな春。でも、」
「でも?」
「…ふと、怖くなるんです。何かが変わってしまう気がして、怖い」
「…うん」
アテナ先輩はいつものようにのんびりとした口調で相槌を打つだけだった。それだけで、アリスは心にすっと何かが降ってくる気がした。降り積もって、心の揺れを落ち着かせてくれる気がした。
アテナ先輩は無言でホットココアの入ったカップを差し出した。それはこの人の静寂のように温かい。
そして彼女は唄った。いつもの、やさしい歌だ。
まるで夜の静寂にホットココアが溶けてゆくようだった。