勿忘草
子供達の賑やかな声で目が覚めた。頭がずきりと痛んで思わず額を押さえる。ゆっくりと起き上がろうとして、すぐに天井にぶつかってしまった。どうやら非常に狭い場所にいるらしい。徐々にはっきりとしてきた視界は薄暗く、自分はコンクリートの筒のようなものの中に横たわっているらしい。頭上から光が射し込んでいる。そこから外に出る事ができるだろうと、所々痛む体を反転させてその光に向かって這いずった。外の爽やかな空気が流れ込んでくる。頭が出ると同時に降り注ぐ日射しの眩しさに思わず目を瞑った。次に目を開けた時、最初に視界に入ったのがその少年だった。
彼はじっとこちらを見下ろしていた。面喰って、身動きを取る事も忘れてその少年を凝視した。十歳にはならない位だろうか。少年、だと思ったものの正直少し自信がない。顔の作りは整っていて子供という事を除いても中性的であるし、つやのある黒髪は真っ直ぐに顎下のラインで切り揃えられている。それでも少年だと思ったのは直感的な何かか、或いはその切れ長な瞳の奥に宿る刃のような鋭さだろうか。それよりもしばらくの間彼を見つめてしまったのは、その姿が非常に美しかったからだ。
「……なに、してんの」
見下ろしたまま彼が言った。よく見れば彼の視線はいささか不審なものを見るような冷ややかなものだった。慌てて体も全てそこから這い出して、辺りを見回してみる。原っぱのような、ただっ広い空き地。子供達が賑やかにボールを追いかけ回している。空は晴れ。少し風があるが寒くもなく気持ちが良い。空き地の前には道路、向かいには民家が連なっていて、その反対側は川だった。けっこう大きな川で、つまりこの場所は広い河原であった。その川に架かる陸橋のふもとに何本ものコンクリート製の土管があって、どうやら自分はその中のひとつに入っていたらしい。
「さあ、何していたんだろうね」
少年に向かって答えた。立ち上がった事で逆にこちらを見上げるようになった少年は、先程よりも一層怪訝な顔をして首を傾げた。
「覚えてないの」
「うん、全然」
「全然?」
「そう、全然。名前も何も、覚えてないんだ」
自分の手の平を見つめて呟く。まるで自分のものではないかのような違和感があった。足元を見れば皮のショートブーツを履いていて、細身のジーンズに翡翠色のシャツを着ていた。腰まである髪は編んである。その所々が土や泥で汚れていたが、どれも全く見覚えがないものだった。
「きおくそうしつ、ってやつ?」
「多分ね」
「……ふうん」
ふと、少年が歩み寄ってきた。反射的に身構えてしまう。何だかこの少年は表情がなくてよく分からない。少年は半ズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出すとこちらに差し出した。
「とりあえず顔を拭きなよ、美しくない」
白いハンカチだった。言い方に何故か苛ついたが、確かに汚れたままでは気持ちが悪い。素直にそれを受け取って顔を拭いた。
「帰ってお風呂でも入りなよ」
「帰るって? 自分の家だって覚えていないのに」
「ああ、そっか」
ありがとう、と言ってハンカチを返した。しかし少年は何か考え込んでいるのかぼんやりとしていてそれに気付かない。もう一度声を掛けようとしたところで、少年はこちらに視線を合わせて言った。
「じゃあ、うちにおいで」
驚いて何か言い返す間もなく、少年が僕の手を取って歩き出した。慌てて僕もそれに合わせて歩き出す。子供達のひときわ大きな歓声が響いた。
「ちょっと待ってよ、君は友達と遊んでいたんじゃないの?」
「ぼくは一人だよ。そこの花を摘みに来ただけ」
そこ、と指された方に顔を向けると、小さめの青い花がいくつも咲いていた。少年は「ちょっと待ってて」と手を離すとその花をふたつみっつ摘んで、再び僕の手を引いて歩き出す。その小さな手がやけに頼もしく感じて、僕はおとなしく彼についていった。
一目見て溜息が漏れるほどの立派な屋敷に連れ込まれ、長い廊下をあちこち曲がったりしながら辿り着いた先は檜作りの浴室だった。言われるままに湯を浴びて、体中の砂埃を落とす。浴室から出ると新しい服も用意してあった。なんだか気恥ずかしいが着ない訳にもいかない。そして廊下に出ると再び少年が僕の手を取った。綺麗になったじゃない、と言って彼は今日初めて笑った。廊下を歩いていると、所々に花が活けてある事に気付く。どれも見事なもので、凄いね、と漏らすと彼は「華道家の家だからね」と素っ気なく答えた。
少年の部屋は綺麗に片付いていた。全く子供部屋らしくもないその光景に妙な既視感を覚えて一瞬目が眩んだ。軽く頭を振ると、木目調の机に置かれた花に目がとまった。あれは少年が先程摘んでいた花だ。光の加減によっては紫にも見える。
「この花、活けるの?」
少年はそれに答えず、机と同じく木目の箪笥の引き出しを何やらごそごそと漁っていた。そこからタオルを一枚出して、僕に投げて寄越す。それを受け取って湿った髪に押し当てていると、少年は机の花を手に取って襖を開けた。襖の向こうは縁側になっていて、その奥にこの屋敷によく似合う日本式の庭が現れた。先程よりももっと強烈な既視感に襲われる。再びひどい頭痛がしたが何とか平静を装って、少年の行動を目で追った。彼は縁側から庭に下りると数歩歩いて、日蔭の苔生した地面にしゃがんだ。そして手にした青い花を地面にそっと置いた。よく見ればそこだけ少し土が盛り上がっていた。
「飼っていたインコが死んだんだ」
こちらを振り向きもせず、少年がぽつりと漏らした。
「ぼくが初めて飼った動物でね、いつも一緒だった。友達だった。すごく、綺麗な色をしていた」
思わず庭に下りて彼の背後に寄った。同じようにしゃがみ込んで、少年の頭にそっと手を置いた。少年は何も言わない。どこまでも爽やかな風が通り抜けていった。しばらく二人でそうやって地面の花を見つめた。茶色い地面に群青色が浮かび上がっていた。
「……君の髪、綺麗な瑠璃色だね」
少年が言った。
「あいつの羽の色と同じで、すごく綺麗」
僕の髪に触れてそう呟くと、少年は何度も僕の髪を撫でた。僕は溢れそうになる涙を何とか堪えて、そのひどく心地好い手の平に身を委ねた。