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邂逅

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 志摩子が中等部校舎を出たのは土曜日の昼も過ぎて午後になってからだった。
 新学期のため予想外に長引いた委員会の会議が終わると直ぐに、銀杏並木を早足でバス停へと向かった。四月と言えど今日は夏のように暑い。薄らと滲んだ額の汗を拭ったところで丁度良くやって来たバスに素早く乗り込んだ。この時間のバスには殆ど人が乗っておらず、立っている人はいない。
 二人掛けの椅子の窓際に座って、腕時計を見ると丁度二時だった。バスを待たずに済んだおかげで時間に少し余裕ができた。今日は父と檀家の家を訪ねる約束をしている。志摩子はほっと一息吐いて、流れる景色に視線を移した。幼い姉妹が、仲良く手を繋いで歩道を歩いている姿が見えた。

 暫くして、志摩子ははっと目を開いた。どうやらうたた寝をしていたらしい。M駅行きのバスを寝過ごす訳は無いから、僅かな時間だったのだろう。数回瞬きをしてから、再び窓の外を眺めた。手を繋いだ幼い姉妹が見える。窓ガラスに映った車内に少女の姿があった。志摩子の座っている椅子の脇に、吊り輪を掴んで立っている。志摩子はそっとその少女の方を向いた。真っ直ぐな黒髪が肩で切り揃えられ、志摩子よりも幼さのある顔立ちをしていたが、よく見たら高等部の制服を着ていた。ふと、彼女と目が合った。どうしてか初対面に思えなかった。彼女は無表情にこちらを見下ろすばかりだ。気まずくなって、志摩子は「隣、どうぞ?」と精一杯落ち着いた声色で言った。彼女は一瞬キョトンとしたが、「ありがとうございます」とあまり感情の籠もっていない声を発して志摩子の隣に座った。

 彼女はそれからも無表情に、反対側の窓を眺めていた。志摩子はその横顔からどうにも視線を逸らせない。どこかで会った気がしてならない。
 「あの」
 志摩子はついに彼女に訊ねる事にした。
 「すみません、お名前、教えていただけないかしら」
 すると彼女は少し困った顔をして言った。
 「ごめんなさい、名前、分からないの」
 「え?」
 「気がついたら此処に居たの。ずっと誰かを待っているんだけど、それが誰なのかも分からない。私に気付いたのは貴女が初めてで。ねえ、お願い」
 彼女は真っ直ぐに志摩子を見つめてきた。よく見ればその瞳はとても澄んでいて、曇りもなくきらきらと輝いている。その瞳が今にも泣きそうに揺れていて、彼女は懇願するように志摩子の手を掴んだ。
 「私の名前を教えて」

 突然の事なのに、志摩子の口からは何故かするりとある名前が流れていた。
 「乃梨子」
 目を丸くする彼女に、志摩子は微笑んでもう一度その名を口にした。
 すると彼女は心底安堵したように、ひときわ眩しい笑顔を見せた。ああ自分はこの笑顔を見るために居るのだとすら思えた。
 「ありがとう」
 暫し笑顔で見つめ合って、志摩子はふと、先程から一度も停留所に止まっていない事に気付いた。何気なく腕時計を見る。丁度二時だった。志摩子ははっとした。慌てて窓の外を見ると、前方に手を繋いだ幼い姉妹が見えた。その姉妹をバスが追い抜いた瞬間、志摩子は極度の睡魔に襲われて瞼を閉じた。




 M駅というアナウンスに、志摩子は目を開けた。頭が重い。珍しく寝入ってしまったようだ。ぼんやりした視界に、見慣れた駅が近づくのが見えた。
 バスを降りるため席を立つ。この時間のバスは殆ど人が乗っておらず、空いたままの隣の席には何処から舞い込んで来たのか、桜の花びらが一枚、一点の汚れもなくそっと落ちていた。


作品名:邂逅 作家名:泉流