そして闇に溶ける名前
もとより頭脳労働中心で肉体を駆使するような作業は全くしていないため、人よりも肉体疲労がたまりにくいせいもあっての事かもしれない。
体を横たえずに目を瞑りそのまま暫く静かにしているだけの休息を睡眠の代わりにする時もあれば、横になって数時間程度の短い仮眠を取る時もある。
そんな時でも、何らかの不測の事態が起きた際にはすぐに対応できる様に、と意識までを完全に手離すことは少なく、常に半覚醒の様な状態でいる事が多かった。
それでも目に見えないレベルでは疲労が蓄積しているのか、ニアは時折糸が切れた様にしばしの間深い眠りに落ちる時があった。
よく、深い眠りをあらわす際に「夢も見ずにぐっすり眠った」などという表現が使われる事があるが、ニアの場合それは逆で、深い眠りに落ちた時に限って、決まって覚醒前には夢を見た。
そんな風に夢を見て目覚めたばかりの時には、夢と現実の境界はしばしば酷く曖昧だった。
そして何故か、その様にして夢を見る時には必ず、メロの夢を見るのだった。
しかしあの日以来、ニアはメロの夢を一度も見てはいない。
正確に言うと深く眠れていないという事になるのだが、奇しくもその事実に気付いたこの日、ニアは久々に深い眠りにつき、あの日以来初めてメロの夢を、見た。
白くどこまでも続く不安定な足元に不思議な感覚を味わいながらも、足場の確認の為に足元を覗きこもうとニアは顔を下に向けた。
しかし白くふわふわとした地面は思った以上に眩しく、ニアは僅かに眉をひそめ目を細めると下げていた顔を元の向きに直し、覚束ない足取りを慎重にすすめて行く。
ゆっくりと歩を進めていくうちにやがて向こうに見えてきた人影は、金色の髪を靡かせて黒い服とロザリオに身を包んでいた。
遠くからでもはっきりとわかる、光を受けて輝く眩い髪と白い肌とが、その姿が、近づく度にだんだんとはっきりと視界に浮かび上がってくる。
夢の中でも変わらぬその面影を、それは脳が作り出した記憶の断片の残像を辿っているに過ぎないと自覚しようがしまいが関係なく、ニアは何時も無意識かつ反射的に目で追ってしまう。
それは夢の中でも現実でも変わらない癖の様なものだったが、いまや夢の中でしか彼を見つけられないということを、まだ認めたくは無い。
現実の何処にも、彼がもう、居ないとは―――
ゆっくりとした歩みのまま、メロの目の前に辿り付いたニアは、僅かに震える喉元を片方の手で軽く抑えながら、息を整えて口を開く。
「久しぶりですね、メロ」
「…ニア」
久しぶりに間近で見る彼の姿は、大人びてはいたが、まだ幼さの完全に抜けきっていない体に不似合いな、ぴったりとしたエナメル素材の服装が変わらぬ危うさと背徳感とを醸し出していて、ニアは胸が締め付けられる様な複雑な心境になった。こんな感情につける名前なんて、知らない。
そんなニアの複雑な気持ちを知ってか知らずか、メロにいつもの噛み付くような勢いは感じられない。
「メロ、あなた、随分と―――」
随分と簡単に逝ってしまいましたね、私を置いて―――
緊張にひりつき震える喉から言葉を紡ごうと精一杯冷静を装って発した声は、情けなくも途中で掠れて途切れ、思ったようにその先が続かない。
例えばこの後、彼に何と言えばいいのだろう?それすらもうわからない。
言葉を発する事を諦めたニアは、せめてその存在を直に感じようと、メロに1歩近づいた。
伸ばされたニアの腕に中に収まったメロは、驚きと居心地の悪さに多少身じろぐような仕草をしたが抵抗する様子は無い。
腕に力を込めメロの肩先に顔を埋めると、金色の髪はさらりと流れて銀色と交わり、そのメロの金の髪から香るわずかな香りがニアの鼻腔をかすめた。多分石鹸の香りに過ぎなかったのだが、太陽のような香りだ、とニアは心の中で呟いた。
それはニア自身がメロの存在を太陽の様だと思っていたからかもしれない。
どうにかしてこのままメロを縫いとめておきたい衝動にニアは駆られたが、さして有効な手段もかけるべき言葉も思いつかず、抱きしめる腕に更に力を込めるのみに留まった。
「ニア、痛い…痛いよ」
先刻より更にきつく廻された腕に抗議の声があがるがニアはそんな事に構う様子は無い。
骨ばった体同士がきしむ程に強くぴったりと密着しているため、自らも同様の痛みを伴っているであろうにも関わらず、ニアは力を緩める気配は無かった。
―――だって貴方、
こうして居ないと蝶の様にひらひらと何処かへ飛んでいってしまうでしょう?―
「…メロ…?」
泥の様な深い眠りから覚めた時、夜は未だ深く、例によって夢と現実の境界は曖昧であったが、しかし彼が既に其処に居ない事だけはすぐにわかった。
それでも、何らかの余韻や気配の様なものを感じたかったのだろうか、ニアはまたその名を呼んだ。
「メロ…」
あるいはそれは、単なる期待に過ぎなかったのかもしれない。
「メロ、」
もうここに居ない者の名を、ニアは呼び続ける。感傷と言ってしまえばそれまでだが、それは何故か祈りにも似た響きすら伴って虚空に消えた。
同じ名を何度も声に出しながら、ああ、神の名を呼び続けながら死んでいった殉教者というのはもしかしたらこの様な気持ちだったのだろうかなどと自嘲的な事を考え、まるっきり滑稽な自分の姿に、ニアは僅かに笑みを漏らした。
それでも、呼ばずにはいられない。
「メロ」
―――どうして、あなたはいつも…
いつもいつもお前を追い抜いて一番になるとしきりに言っていたのに、結局いつだってこうして私を置いて先に行ってしまう。
置いていかれているのは、追っているのは本当はいつだって私の方じゃないですか。
そうしていとも簡単にこの腕の中をすり抜けて行ってしまう。
彼はちっともわかっていないのだ。私がそれを、どんなに怖れているかを――
そんな事を考えて薄く開けたままの唇をほんの少し噛み締めてニアは天井を見上げる。細く開かれたぼやけた視界には、月明かりが薄っすらと差すだけの仄暗い部屋に浮かび上がる四角い筈の天井はわずかに歪んで見えた。
そして観念したかのような面持ちでそのままゆっくりと緩慢に目を閉じていく。
ひとたび瞳を閉じてしまえば必然的にまぶたの裏に焼きついたあの眩しい金の髪が嫌でも脳裏に浮かぶ事になるが、そんな事は関係無い。どうせ目を開けていようが彼の幻を見かねないのだからもうどちらでも同じ事なのだ。
「メロ」
何度呼ぼうと同じだ。現実は変わらない。
「メロ」
何度その名を呼んでも
「メロ――――」
返事は無く、声は闇の中に溶けて消え、言葉はただ宙をはらはらと舞っては散るばかり。
作品名:そして闇に溶ける名前 作家名:仮初