夏、波音、消えない残像
連綿と続く波の動きへと目をやる。
押し寄せては引いて、また寄せる。太古の昔から繰り返されてきたそれは
一体いつまで続いていくのだろう。
そして一体 どこまで繋がっているのだろう、今眼前に広がる、この海は。
そんなあてどないことを考えながら浜辺をひた歩いた。
じっとりとシャツが肌に纏わりついてゆく湿った感触と、靴の上からでもわかる、じりじりと灼けた熱い砂の温度。
木々の翠緑が白い砂の上に濃い色の影を落としている部分以外は、全ての部分が、熱と光に覆われる季節。周りの空気は暑いのにそこだけ冷たい一筋の海風が、潮の香りを伴って鼻先を掠め頬を撫でていく。
瞬間、過去に経ち返ったかの様に鮮明に蘇る幼く拙い記憶。
嗅覚が一番明確に記憶を呼び覚ます効果がある、という実験結果はあながち間違っていないのかもしれない、などと他人事の様に考え、ひとつ息をついて空と海との果てしなく続く青に目をやる。
少しの間そのまま静止して海面を見ていたが、日の光を受けてきらめく水面の反射がちらちらと視界を遮る眩しさに耐え切れず、ニアは少し眉をひそめて目を伏せた。
色素が薄く目が弱いニアには、その眩しさを長時間直視することは到底不可能に思えた。
しかし、思えば、あの頃には そんなものなどくらべものにならない、
もっと直視できない程の眩しいものが、確かにそこには、あった。
『夏、波音、消えない残像』
ニア含めワイミーズハウスの子供達は皆海水浴をはじめとする水遊び・アウトドアなどの類には到底縁がない環境で育ってきたが、ほんの幼い頃、それでも一度だけハウスの皆で海を訪れたことがあった。
外に出るのがあまり得意とはいえないニアは日陰で帽子をかぶって涼をとっていた記憶があるが、きらきらと輝く白い砂や一秒として同じ姿でいない揺らめく海面の美しさには幼ないながらに魅了された記憶がある。
しかし、くるくると変わる表情で一秒として同じ顔でいないのは、彼とて同じこと。
正確には、自分とは一線を画したそのきらきらと光る世界の中に居る彼という景色に、魅了されたのかもしれない。
日の光を受けてなお輝きを増す髪と、健康的な白い肌。
太陽を模したのかと思うほどの眩さに、大勢の中に居ても、何処に居ても、いつもすぐに目に付いた。
その姿を余すことなく全て目に焼き付けておきたいのに、いつも明るい中に居る彼を隠れて暗い部屋の中から視線でおってばかりいるというのに、いざとなると目を逸らしてしまう。
目を離すことができないくせして、しっかりとは直視できない。
その時も、水飛沫を受けて楽しそうに波打ち際を走り回ったりするその姿を、少し離れた木陰の下で麦わら帽子の隙間から覗き見るのが精一杯だった。
潮の香りに記憶を呼び戻されてそんないつかの出来事を懐かしく思い出していると、波音にリンクするかのように、遠くに鐘の音が微かに聞こえてきた。
そういえばここに来る途中の山道には、古びた教会があった。そこからだろうか。
そこを通過した時、窓越しに見える建物を横目に、彼の最期となった地もこのような場所だったのだろうか、などと、考えたくはないがいやがおうにも浮かんでくる考えがふっと頭をもたげたことを思い出した。
鐘の音には、一日の始まりと終わり、そして悪魔の死とキリストの生誕をあらわす意味が込められていると聞くが、彼を失った後に聞くそれはどうしても福音とは思えなかった。
海を見ることでそんな暗い考えを払拭しようとも試みたが、やはり海にくるべきではなかったのだろうか。一瞬そんな思いが頭を過ったが、否、場所の問題ではない。
海だけではない。教会だって、街の中だって部屋の中だって、どこだって同じに違いない。
空も海も、季節だって場所だって その全ては単なる膳立てに過ぎないのだから。
たいした思い出なんてありはしないのに、結局何処に行っても浮かぶのはただ一人だけ。
常に無差別に私の視界を蝕むのに、そのまま消えないように記憶ごと強く視界と脳裏に焼き付けたいと願って鮮明に思い浮かべようとすると、実態を伴わないそれは今度はたちまち輪郭をぼやけさせてしまう。
時間の経過とはかくも残酷なものかと思い、ニアは自らの記憶中枢の不完全さを呪う。
完全に忘れ去ることも完全に再現することもどちらも不可能だというのならば。
このままこの息苦しいほどの閉塞感に苛まれて生きていく事を受け入れてしまった方が、いっそ潔く幸せになれるのだろうか。
そうして何処に居たって 今日もまた
ただただひたすら思い浮かぶのは貴方の姿ばかり。
過ぎ行く季節の中でいつまでも薄れない面影を記憶とともにやり過ごそうと記憶の底でじっとうずくまって待ってはみるものの。
眼前に広がるものは。
夏、波音、消えない残像。
ああ、やはり---
海になんか来るんじゃなかった。
早く夏なんて終わればいいのに。と、苦し紛れに思った。
作品名:夏、波音、消えない残像 作家名:仮初