もしも僕が神さまなら
雨に濡れてしまうことは特に気にならなかった。
鞄の中の教科書やノートは教室から拝借したビニール袋に入れてあるし、濡れた鞄は干せばいい。制服だってさっと洗って脱水時間を極端に減らせば家でも洗えるのだと以前杏里に教えてもらったので問題はない。
昼を過ぎた辺りから急に空を覆った厚い雲は、夕方、ちょうど全ての授業が終わる時間を見計らったかのように大粒の雨を落とし始めた。
今朝携帯に配信された天気予報はそのことを伝えていただろうか。記憶にない。今朝の情報なんてすぐに他の情報に上書きされ、消えてしまう。世の中には際限なく情報が蔓延し、人一人が得られるのはその内のほんの一部でしかない。
ふと浮かんだのは、折原臨也のことだ。彼は職業情報屋というくらいなのだから、やはり普通の人よりも多くの情報をその手中に収めているのだろう。それは一体、どんな気分なのだろう。
(神様にでもなった気分になるのかなあ)
(あの人はそして、何がしたいのだろう)
雨は見た目以上に強く帝人に降り注いでいる。すでに全身が濡れてしまっているので肌ではその強さを感じない。ザアザアという音ばかりが煩い。それ以外の音は聞こえない。太陽を隠す曇天の下では景色も霞む。
大概いつも共に下校する杏里は、今日は用があるからと一足先に帰ってしまった。一人きりの帰路はひどく寂しい。けれど最近は慣れてきてもいた。いつだって賑やかだった友人と離れて、もう大分月日が経ってしまっている。どんな状況でも人はいつの間にか適応できてしまうらしい。昔に一度味わった消失だって、そういえば時間と共に癒えていた。
勝手なものだ、と思う。だが思うだけでそれが悪いことだとか良いことだとは考えない。いつの間にかそうなっていた。ならばそれが自然の原理と受け入れるべきだろう。
止む気配のない雨は帝人の左手に持つ携帯のディスプレイをも隠す。防水携帯なので濡れてしまうこと自体は気にならないが、薄暗い周囲を明るく照らすディスプレイの光が、そのくせ水滴に歪み、小さな画面に映し出される情報を読み取り難くなることを帝人は忌々しく思った。
「帝人先輩、」
近くで水が大きく跳ねる。それを視界の隅に捉える。
人の気配が帝人の脇を通り抜け、行く手を遮るように立ちふさがった。帝人よりも僅かに低い位置からじっと帝人を見るその後輩に帝人は何の感情もなくただ笑顔を浮かべる。
「どうしたの、青葉くん」
「風邪、ひきますよ?」
にこりと笑った青葉は透明のビニール傘をくるりと一回転させて云った。傘を回した勢いで水滴が帝人にかかったのを気づいているのかいないのか。おそらく前者だろう。そう判断したけれど帝人は何も云わなかった。
「傘、忘れたんです?だったら俺に云ってくれたら良かったのに。そしたらちゃーんと先輩の傘、用意しましたよ」
屈託のない笑みを浮かべる彼はしかし帝人に傘を差し出すでもなく土砂降りの中に立つ帝人をただ眺めている。
「そう?」
ともすれば雨音に掻き消されてしまいそうな呟きだったが、青葉は「そうですよ」と嬉しそうに答えた。
「帝人先輩は、もっと俺に頼っていいんです。だって先輩は俺たちのリーダーなんだから。先輩の思うように使ってくれていいんですよ」
まるで雨音に乗せるように軽やかな口調で青葉は云う。
「そうだね。僕は君たちのリーダーだ」
対する帝人もどこか楽しげに答える。
「だから、」
「だから、」
「そこ、退いてよ」
前髪から滴る雨粒も気にせず、顔には笑みを貼り付けたまま帝人は云った。帝人の答を予期していたのか、青葉の表情は変わらない。
「青葉くんが必要な時はちゃんと呼ぶよ。呼んだらすぐに来てくれるんでしょう?分かってるから大丈夫。呼ばなかったってことは君が必要なかったからだよ。分かるよね」
「帝人先輩は辛辣だなあ」
青葉はまだ笑っていた。雨に隠れた本当の表情があるのかもしれないと帝人は目を細めてみるが、そこにあるのは高校一年生というには幼顔の、見慣れた帝人専用の表情だった。(ということくらい、帝人だってちゃんと分かっている)
「風邪、ひいちゃいますよ」
大きく足を踏み出し、帝人に道を譲る青葉はやはり楽しそうに云った。
相変わらず彼の傘は彼一人分のスペースの雨しか遮らない。傘の先からぼたぼたと雫が落ちる。跳ねて、足を濡らす。けれど空から降ってくる雨粒に交じり、判別はつかない。青葉の差す傘に落ちる雨音はひどく煩かった。その音が世界を遮断する。実際には雨音が続いているのに無音となる。
空を仰ぐと放射線状に雨が降り注いでいた。その中心で帝人は思う。
(もし、僕が神さまなら、)
そんな現実味のない仮定を頭に浮かべ、帝人は自嘲した。不思議そうな顔で帝人を見ていた青葉も傘を傾け、空を仰ぎ見る。何かあると思ったのだろうか。青葉はじっと曇天を見つめていた。
瞬きをすると睫毛に溜まった雨水が涙のように頬に流れる。
「毎日を、雨にしよう」
呟いた帝人の声は絶え間なく降る雨に吸い込まれ、そして誰に聞こえることもなく霧散する。或いは傍にいた青葉の耳には届いたのかもしれなかったが、彼は何も云わずただ帝人に視線を向けただけだった。
(毎日、)(毎日を雨にして)(全てを隔離してしまったら)(そしたらもう、何も離れていかないでしょう)
(もし、僕が神さまなら)(毎日を雨にして)(そして、引き算のない世界にしたいんだ)(何も減らない世界にしたいんだ)
(よ)
作品名:もしも僕が神さまなら 作家名:けい