若紫計画
蒸し暑い部屋の中、開け放たれた窓から入り込む僅かな風が、濃紺のカーテンをふうわりと揺らしていた。
窮屈を嫌って選んだひとりで寝るには大きすぎるベッドの上で、雲雀は身体の下に、一回りは違うだろう小さな少年を組み敷いて、都会の夜みたいにギラギラと光る凶暴な黒の瞳で見下ろしていた。
組み敷かれた子供は己の現状がわかってないのか、のしかかる雲雀の瞳をじっと見つめて、きゃいきゃいと笑っていた。
「よるがね、えのぐみたい、にあるよ」
「いい加減にしなよ」
何時まで芝居を続けるつもりなの。
雲雀が吐き捨てるように言えば、手足をばたつかせて笑っていた綱吉は途端に大人しくなった。
その言葉で綱吉は、湖の湖面のような、心の底まで見えてしまいそうな澄んだ瞳だけはそのままに、表情だけを顔からすっかり落としてしまった。
「……どうしてそんな馬鹿げた事をしているの?」
「大人の世界は、子供には厳しいからです」
ふわりと大きく揺らいだカーテンの隙間から、一瞬だけ月光が部屋の中を照らした。そうして照らし出された綱吉の顔が、泣いているように見えて、雲雀は押さえつけていた手を離した。
雲雀がどいた事によって、ゆっくりと起き上って真っ直ぐに見つめる綱吉は、もうちっとも白痴の子供ではなかった。
へにゃへにゃと笑顔を張り付けていた、年よりも大分低く見える子供ではない、ずっと大人びた、子供に似合わない表情を浮かべて口を開いた。
「雲雀さんは、俺の正体がわかりましたか?」
いくら探しても、綱吉がどんな人間なのかに当たる情報に辿り着く事はなかった。見つけられなかった事実は悔しいが、雲雀は素直に首を横に振る。
「俺の名前は沢田綱吉と言います」
俺のずーっと前のおじいちゃんの名前は家康、本当の名前はジョットって言います。
それを聞いて、雲雀はなぜ綱吉がボンゴレの最重要機密であるかを理解した。
マフィア界の頂点に立つとも言えるファミリー。そのドンは、まるで鎖で繋がれるかの様に血に縛られている事。その血に宿る特殊な力を求めて起こった、多くの戦い。
そしてボンゴレの血を持つ者は、今ドンの地位にいるボンゴレ九世唯一人というのが、世界の認識である。
綱吉の先祖がジョットであるなら、ボンゴレの開祖、プリーモであるジョットであるならば、綱吉はこの世界で唯一二人目の、ボンゴレの血を持つ人間となる。
「大人は子供に何も教えてくれないけど、それが何も分からない子だったら、平気で何の話でもするんです」
「……それが、君が演技をしていた理由?」
「はい。ボンゴレを壊すにはたくさん知らなくちゃいけなくて……でも、疲れてきちゃいました」
九世もリボーンも好きにしていいって言うけど、あの人たちがボンゴレを大切にしてるのはよくわかるんです。だから俺が潰すのに手伝わせちゃいけない。ひとりで戦わなくちゃいけない事に、最近疲れてきちゃいました。
綱吉が小さく鼻を啜る。
闇に慣れた瞳が、その小さな気配が、綱吉がごしごしと瞼を擦っているのを伝えて来て、雲雀は思わずその手を取った。
「おもしろいね」
「う、へえ?」
「ボンゴレを潰すって、おもしろそうじゃない」
澄んだ瞳は琥珀が内から輝く様に、闇の中でも不思議と明るく見える気がした。その瞳には、きっと楽しそうな顔をした自分が映っているのだろうと雲雀は思う。
「退屈しなそうだし、僕が手伝ってあげてもいいよ」
途端握っていた手が僅かに揺れて、雲雀に動揺を伝えて来た。
白痴のふりのできる狡さがあっても、ボンゴレを潰そうと計画する賢さがあっても、その芯の部分はまだほんの、すぐ泣く、ちょっとの事態にも揺れる弱っちい子供であった。
その矛盾が、出来上がりきらない不安定さが雲雀には好ましかった。獅子の皮を被って威嚇して見せる、まだてんで小さな仔猫がどう育つかを考えると、背中がぞくぞくとする。
珍しく楽しいと意識して、雲雀は綱吉のふわふわとした頭を撫でた。
「でも俺には、あなたに渡せるものが、ないです」
「子供がくだらないこと考えるんじゃないよ」
「だって……」
こんな小さいうちから、綱吉はもらうだけでは世界が成り立たない事を知っている。与えられる物だけ受け取って、それを当り前に生きている子供の世界は、綱吉の中には既に存在していないらしい。
「じゃあ……君を頂戴」
「へっ?」
俺? と小首を傾げるのは白痴の子供でも、虚勢をはる子でもない。はしはしと瞬きをして雲雀を真っ直ぐに見つめるのは、年相応の、唯の十歳の小さな子供の顔だ。
「でも、俺。何も持ってないですよ?」
雲雀はくすりと笑って、綱吉の前髪を掻きあげた。小さくてまろい、白い額に唇を寄せる。
「今は分からなくていいよ」
――でも君はもう、僕の物だ。
小さく頷いた気配に雲雀はまた少しだけ笑って、せめて優しくしてあげようと、小さな身体を腕の中に納めてみた。