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めまい

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不思議と、校舎に満ちる空気は死んでいるようだった。
元々業後の校舎は静かなものだったが、今源田が歩いている空間の静けさはいつものそれより遙かに勝っていた。窓の向こう側から、雨音だけが延々と流れている。
かつ、かつ、かつ。早足で廊下を進めば、自然とその足音ははっきりと響いた。
一面に並ぶ同じ形をした扉を素通りして目指していた教室に辿り着いた源田は、一つ息を吐くとそっと教室の扉に手をかけ隙間から頭を覗かせる。
源田の探していたものは思っていたとおり、そこにあった。
あまり音を立てないように注意を払いながら、教室の中に身体を滑り込ませる。教室の一番後ろ、窓際の机に沈み込む薄水色の頭の側に立つと、源田はゆっくりと口を開いた。
「佐久間?」
 大きな声を出したつもりは無かったのだが、静寂の満ちた空間ではそれが随分とうるさいものに感じられる。
声を受けた頭がもぞりと動いて、ゆるゆると水色に縁取られた顔が上がる。一つだけの琥珀色の瞳は、源田の姿を認めるとどこか気の抜けたような色をしてみせた。
「お前か、練習は?」
「一応指示は出してきた、まぁあいつらならしばらく放っておいてもやってくれるだろう」
「そうだな」
声を出すのも億劫、といった様子でそれだけ言った佐久間は、どこか恨めしげに窓の外を眺めると掠れた溜息を一つ落とした。練習を休むどころか誰よりも先にやって来て部員達に指示を出すのが佐久間の本来の姿である。その佐久間がこうして教室の片隅で小さくなっている理由がその溜息一つで何となしに理解できてしまった源田は、佐久間の一つ前の椅子に腰を下ろし視線を合わせてみせた。
「痛むのか?」
「何の話だよ」
「傷だ、痛むんだろう」
咄嗟に包み隠そうとしたようだったが、その声音は確かに僅かな動揺が滲んでいた。きまずそうに、すっと視線が逸らされる。
「退院してからずっとそうだったんだろう?」
「そんなことない」
「佐久間」
もう一度ゆっくりと名前を呼べば、佐久間の肩がかすかに震える。それが何よりも問いかけへの答えを雄弁に物語っていた。
「いつ、気が付いたんだ」
相変わらず、佐久間の声はかさかさに掠れている。
「右目のあたりがな、雨の日だけ妙に痛むんだ」
問いかけには答えずそう言えば、佐久間はふっと息を飲んだ。
「それで、もしかしたら佐久間も同じなのかと思った」
じわりと痛む右目の古傷を感じながら、雨の日の練習に励む佐久間の後ろ姿を眺めていた時にふと直感的にあの傷痕も痛むのだろうかと思い当たった。自分の傷痕も痛みを訴えていたから、それが一番気が付いてしまった理由の中で一番それらしいもので、残りははほとんど勘のようなものである。
ゴールを守りながら見る雨の日の佐久間の背は、時折普段では見せないようなこわばりを見せることがあって、源田がそれに気づいてしまった日から佐久間は雨の日の練習には少しずつ遅れてくるようになって、そして今日とうとう練習に来なくなった。
他の部員達が探してこようかと口々に言う中、源田自らが佐久間を探しに来たのは、同じ痛みを知っているのは自分だけしかいないと、そう思ったからだったのだ。
「そうだったんだろう?」
そう声を掛けると、凍り付いたように源田を見つめていた身体からふっと力が抜けたかと思うと、佐久間はあぁ、と呻き声の様な声を漏らして机の上にぐたりと身を伏せた。
「…情けなくてしょうがなかった」
くぐもった声が、雨音を縫って響く。
「けど、それでも痛くて仕方ないんだよ」
語調はいつもと同じはずなのに、言葉の一つ一つは源田のもとに雨水を吸ったように重たく落ちた。
「普通に練習が、サッカーがしたいのに、身体が上手く動かなくて」
「ずっと、痛くて、悔しくて」
ぽつりぽつりと零れるそれは悲痛な叫びと言うには乾いていて、けれども隠しようのない悔しさが滲んでいた。佐久間はあの日から今までに、どれだけこの言葉たちを飲み込んできたのだろうか。恐らく今この瞬間源田だけに向けられているこれは何十回、何百回と舌の先まで出かかった、そういう言葉なのだろう。
源田は、せめてこの瞬間だけでも佐久間がそのをぶつけられる、そんな居場所でありたかった。
「…いたい」
ゆっくり、ゆっくりと佐久間は顔を隠したまま言葉を紡ぎ続ける。源田は沈み込んだ薄水色の髪をそっと撫でた。雨のせいだろうか、触れた細い髪は僅かに湿気を帯びていた。
ガラス窓の向こう側で、遠くの空がちかりと光る。
どこかに呻るような音が落ちて、雨音は更に勢いを増した。
作品名:めまい 作家名:midorino