そこにこころがあったのならば
細い声で名を呼ばれ、静雄は振り向く。その視線の先には、柔らかく微笑んだ若い女性が一人。
この池袋ではよくある格好をして、特に目立つところのない女性だった。――ただひとつ、その双眸が赤く染まってさえいなければ。
しかしその奇異な風貌に驚くでなく、静雄はああ、と彼女を呼んだ。
「罪歌か」
女性はにこりと微笑み、「ええ」と答えた。罪歌――それは正確には彼女の名ではない。彼女の、その肉体に与えられたものではない。しかしそれは間違いなく、今の彼女を示す記号であった。
つまり、その精神を支配した、人を斬ることを己の存在理由とする、一振りの妖刀の――その名である。
静雄は頭二つは下にある赤眼を見下ろして、「今日は女なんだな」と呟くようにして言った。罪歌は笑んで肯定する。
「ええ。だって貴方、男は嫌いなんでしょう?ひどいことだわ、身体がどうであっても私たちが貴方を愛していることに変わりはないのに」
母と同じように、と罪歌は言う。会う罪歌が皆口にする『母』とやらに静雄はまだお目にかかったことはないが、要するにそれがこの罪歌たち全ての人格の元なのだろうと彼は推測している。
静雄がこうして特に目的なく街をぶらついているとき、一番最初に彼を見つけた罪歌がその隣を歩く、と言う妙な習慣が出来て久しいが、彼とて若い男である。中年の腹の出た親父よりは若くそこそこ見目いい女が隣にいた方がまだ心穏やかであれるに決まっている。特に罪歌は、その名から想起されるように女性の人格を己のアイデンティティと定めており、横を歩いている間中つらつらと語りかけるので尚更だ。
それを解するようになった罪歌は、一番最初に静雄を見つけた者、と言うところにさらに女であること、と誓約を付けた。静雄としては放っといてくれればいいのに、と思うことしきりだが、そう邪魔なわけでもないし、内心、言葉をかけてくれる存在が嬉しかったりする。……罪歌が少々静雄の癇に障り易くさえなければ、もっとよかったのだが。
にこり、と罪歌は縁笑んだ。
「じゃあ、隣を歩いてもいいかしら」
「好きにしろよ。ただし、斬るな」
そうだけ言って、静雄は歩みを再開する。いつかの夜の乱闘で、静雄を斬ることを一応は諦めたらしい罪歌だが、彼女にとって斬ると言う行為はそのまま愛情を示す手立てでもある。己が今最も愛しい人間と定めた静雄にそう言った衝動を全く感じないでいることは難しいらしく、時偶カッターやらナイフやらを取り出したり、静雄のことをじいと見詰めていたりする。斬られても静雄自身はそう痛みも感じないし問題ないと言えばないが、せっかくの穏やかな時間をいちいち邪魔されたようで不快だし、第一騒ぎになる。彼は必ずこの釘差しを忘れない。
そして、それに罪歌が返す答えもいつも一緒だ。
「ええいいわ。貴方と一緒にいられるなら」
その彼女の微笑みは、どう見ても、ただの恋する人間の女のものであったのだけれど、静雄も罪歌もそれに気付くことはなかった。
そこにこころがあったのならば
(のぞみあうこともできただろう)
作品名:そこにこころがあったのならば 作家名:上 沙