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左手の不在を埋めるもの

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「す、すみません、大丈夫ですか」

反転した視界を、一瞬何が起こったのか分からないまま眺めていると、慌てた声が息せき切って近づいてくる。
衝突した拍子に転んでしまったのは自分の方で、当たり方の問題だろう、相手の方はたいした衝撃もなく済んだようだ。

「おい、気を付けろ!」

シュミットがコースの向こうで駆け寄ってくるハインツを睨み付けた。
途端に萎縮してしまうのは、2軍の彼らにとっては1軍のNo.2が常に厳しく高い成果を求める人物であると重々分かっているからだ。
彼の前に立つと一瞬たりとも気が抜けない、いつもそんな顔をしている。
今、急に飛び出して来たのは確かにハインツだったが、こちらもきちんと周囲に気を配っていたかといえばそうでもない。
目の前のマシンとコースだけにしか集中がいっていなかったのだから、まあ、責められるべきはハインツだけではあるまい。

「シュミット、大丈夫だから」

ハインツが差し出した手に右手を乗せて立ち上がる。
軽く手を挙げて合図をすれば、シュミットは小さく息を吐いて頷いて、また自分の練習に戻った。
彼は今、ミハエルとの連携技の練習中なのだ。
すみませんリーダー、と、シュミットの声が向こうに響く。
なんとなくその後姿をみやって、それからハインツに向き直る。

「本当に大丈夫でしたか…?」

「ああ、心配するなって」

「すみません」

頭を下げるハインツに、もういいから、と小さく笑う。

「お前も練習に戻れよ」

言いながら、自分を待っているヘスラーのところに戻ろうと、すれ違いざまにハインツの肩を叩く。
ぽんと軽快に弾いて離れるはずだったそれは、しかし、少々の違和感をもって肩上に止まってしまった。

「………っ、」

「アドルフさん…?」

「……何でもない、はやく戻れよ」

左の手首に小さく痛みが走ったのを隠して、そう言った。






どうも転んだ瞬間に手をついたことで、左の手首を捻ったらしい。
見たところひどく腫れているわけでもないし、重いものでも持たなければ激しい痛みが走るわけでもない。
利き手でもないのだから、まあ日常生活には支障はないだろうと判断して、練習後に洋服の下で湿布を貼るに留めた。
余計な心配をかけることもないだろうと思ったし、原因が2軍のメンバーとぶつかったことだと言えば彼が肩身の狭い思いをする羽目にもなる。
しばらくすれば痛みも引いて治るだろうと思った。
の、だが。

確かに、日常の生活にはそう大きな障害は無い。
意図して使わないようにすれば困ることもない。
利き手ではないから。
ただ、

「…………」

ピアノの前に腰を下ろして、アドルフは何度目かの溜め息を吐いた。
右手を鍵盤の上に乗せる。
指を下ろせばぽろりと深い響きがして、メロディを奏でることはできるのだ。
しかし、

「…………っ、」

左手を乗せて動かそうとすれば、さすがに痛んだ。
はあ、と溜め息。
当分まだ、左手はお預けだ。
毎日の習慣となっているピアノの練習が途切れてしまうのは嫌で、だから怪我をしてからもピアノの前には座っているのだが、数日たった今でもなかなか痛みが引かない。
大したことはないと高を括っていたが、どうも甘く見すぎていたらしい。
右手だけで奏でるメロディは、ひどく味気ない。
けれど、やめる気もしない。
小さい頃からの習慣だから、毎日ピアノに触らないと落ち着かないのだ。
思い切り弾きたい。
しかし、無理をすれば怪我は長引くだけだろう。
それくらいの判断はできる。
だから、仕方なく自分は右手だけで味気ない音を奏でている。
いつもなら時間を忘れるくらいに没頭するそれに、欠片ものめり込めないことに、物足りなさを感じながら。





そろそろ片手の味気ない演奏をやめて、休む準備でも始めようかと思った時だった。
こんこん、と扉を叩く音がした。

「アドルフ、いいか?」

「入って構わないぞ」

扉の向こうに聞こえた声はヘスラーのもので、アドルフはピアノの前から動くこともなくそう返事を返した。
1軍のメンバーの中でも一番仲が良いヘスラーには、アドルフはあまり気を遣わない。
練習が終わって落ち着いた午後、お互いの部屋を行き来するのもよくあることだ。
連携技について相談したり、他愛のない話をしたり、ピアノを聴いてもらったり聴かせたり、それが日常ではあるのだが、もしも今日、ピアノを聴きに来たのだったらごまかさないといけないな、という考えが頭を掠めて、ピアノをしまった方がよいかと内心で思案する。
しかし、部屋に入ってきたヘスラーは、アドルフが行動を起こす前に、真直ぐにピアノの方に向かってきた。

「ヘスラー?」

椅子に腰掛けたまま、左隣に並んだヘスラーを体半分だけ捻って見上げると、口元に手を当てて何やら譜面をじっと見つめていたヘスラーが、おもむろに右手を差し出した。
鍵盤に向かって。

ぽろ、ぽろ、と不器用に音が鳴る。

面白がってピアノを教えたことはあったが、両手を同時に違う動きで動かすなんて俺には向かないな、お手上げだ、と、文字通りへスラーは両手を上げた。
それ以来、聴くばかりでほとんどピアノに触ることもなかったヘスラーが、自ら進んで鍵盤に指を下ろしている。

ぽろり、ぽろ、と不器用な音の羅列は続く。

随分難しい顔をして、まるで譜面を睨み付けるようで、そんな表情は穏やかなヘスラーには珍しい。
何をそんなに必死になっているのだろう。

「ヘ、ヘスラー?」

いったいどうしたんだと名前を呼ぶと、

「やはり、アドルフのようにはいかないな」

当たり前だが、と、ヘスラーが指を離してこちらを向いた。
そういしたときにはもういつもの穏やかな表情で、にこりとアドルフに笑顔を向ける。

「……それは、簡単に弾かれても困る」

俺は小さい頃からずっと弾いてきたんだから、ほとんど弾いたことのない人間に同じ程度に弾かれたのでは立つ瀬がない。
と、言いかけて、いやそんなことよりも、と思い直す。

「…いったい、どうしたんだ急に。今まで勧めてもほとんど触らなかったじゃないか」

急に音楽に目覚めでもしたのか?
まさかと思いながらそんなことを尋ねると、ヘスラーは笑ってまた、鍵盤に向き直った。

ぽーん、

一音。
低いドの音が長く響いた。

「いや、そういうわけでもないんだが」

「じゃあ、なんだ?」

ぽろ、とヘスラーの指が一つ右にずれた。
短い一音が、レの音を紡ぎだす。

「右手が、」

「?」

右手、と、ヘスラーの右手に目を向けると、違う、ヘスラーが笑った。
ぽろりとまた一音。
優しく優しく、ミが響いた。

「お前の右手が、寂しそうだったから」





「………Danke.」

小さな口の中の呟きは、もしかしたら聞こえなかったかもしれないと思ったのだが、

「Bitte.」

ヘスラーはそう返して微笑んだ。





2010.6.27