Vector
報われない片思いは辛いだけ。
こちらに向かない瞳。
気付けば好きな人の名前を俺に呟く。
好きだから気付く無意識の行動。見つけるたびに痛む胸。
それは君だけの専売特許じゃないんだよ、佐藤君。
「やめたいなぁ…」
君を愛することをやめたら苦しくなんてないのに。君を愛することをやめたら、世界は止まったように映るだろうに、そんなことを呟いた。
『Vector』
佐藤君にせっつかれて、仕方がなく仕事をしていた時だ。何も言わず真面目に仕事をしているはずなのに、突然掛けられた言葉。
「駄目だよ、相馬さんっ!!」
「えっ…?」
低い位置からした声。ダンボールを横の台に置いて、ようやく見えた種島さんはビシっと俺の方を指差している。
なんだろうか。ダンボールを持って歩くときは下を注意して歩け、とか?
「ワグナリア辞めるなんて絶対に駄目!」
「や、める?」
「葵ちゃんから聞いたよ!相馬さん、何かあるならわたしに教えて。相談のるよ!」
待ってくれ。俺はここを辞めるなんて一言も言っていない。事態がわからず困っていると、遠くから山田さんが覗いている。
捕まえていつそんなことを言ったか聞いた。どうやら二日前に自分の恋愛事情についての呟きを、天井裏で聞かれていたらしい。迂闊だった。
「それはそういう意味じゃないから安心して」
「ホントに?」
「本当だよ」
「ど、どうしましょう。山田、色んな人に言っちゃいました」
……予想できた事態だから何も言わないけどさ。一先ずホールの方には二人から言ってもらうとして、同じキッチンの佐藤君には自分から言うことにしよう。言わないのも面白いけれど、きっと直ぐに皆からホッとした声が聞こえてくるだろうから。
そう思ってキッチンに行くが、ちょうどオーダーが入り始めていて、俺も働かなければ回らなくなりはじめている。仕方がない、後回しだ。
「うわー疲れた」
結局そのまま仕事に追われ、閉店時間。全ての作業を終えて着替える頃には、動くのも怠くなっていた。佐藤君は俺を無視して着替え始めている。
あぁ、佐藤君といえば、言わなきゃいけないんだっけ、あれ。
「相馬」
「ん、なに?」
「……辞めるのか?」
なんだ、気にしてくれてたんだ。背中を俺に向けたまま佐藤君は尋ねる。
辞めないよ、と言うのは簡単だ。しかし彼は『何をやめるのか』とは聞いていない。つまり、少し意地悪しても構わないだろう。
「やめたいと、思ったよ」
「………」
「だって、辛いじゃん」
こちらに向かないその瞳。無意識に彼女の名を口にし、行動には優しさが出る。それを見るのは辛い、苦しい。けれど止められない。
『好き』を止めても結局は続く。そういうものだと知っている。佐藤君もわかっているでしょう?
「……辞めんなよ」
「佐藤君、気にしてくれてたんだ。珍しいこともあるね」
無愛想ながら、彼は優しい。優し過ぎて、それは一種の毒だ。
苦しさのあまり必死で茶化した。なのに怒る気配もなく彼は着替えを続けている。何か言ってくれないと、嘘だと言えなくなるというのに。
どうやって真実を告げてやろうか。考えていると佐藤君は手を滑らせて制服を床に落とした。しかし彼は直ぐに拾おうとはしない。疑問に思いながら、代わりに拾ってあげる。
「白なんだから汚れ、ってえ……」
俺の手からもぎ取るそれ。なんという態度だろう。普通なら怒るところだ。
けれど、一瞬見えた横顔が酷く悲しそうだった。まるで泣きそうな、そんな様子。
俺がいなくなることをそんなに嫌だと思ってくれたのか。でも何故、そこまで?彼がここまで感情を見せることは少ない。彼が感情をあらわにするのは、好きな人の話題だけ、で。
「ねぇ、佐藤君」
「………」
「さとーくん?」
「………」
「……潤」
着替えの進まない手に自分のを重ねる。体が近くなりようやく感じる体の震えは可哀相なくらいだけど、自惚れでないのならこれは未来への道しるべ。
「ワグナリアは辞めないよ。やめたかったのは、ある人を好きでいること」
「そう……ま…」
「でも、もしかしたら、やめる必要なんてないのかな」
重ねた手を離す代わり、そっとぎゅっと抱きしめる。抗う行為はない。受け入れて、小さく俺の名を呼ぶ。
いつから佐藤君のベクトルが俺を向いていたのか、知りたい、聞きたい。俺がいなくなると聞いて、どれだけ想ってくれたか、その口から言ってほしい。
けれどその前に聞いてほしい言葉がある。
「好きだ、佐藤君」
震える声はそれでも、答えてくれた。願っていたそれを、そっと、はっきりと。