時と永遠
そう、生きていくためには何をもしていい、と兄が言いきったのは春先の頃合だったろうか。黒塗りされた窓越しにありとあらゆるところへと四散してゆく薄桃色の花弁を眺めながら、お前が生きていくためなら俺は何でもするよ、と。だからお前は何もしなくていいのだと言った兄の真剣な目を見て、そうして、俺はようやく自分が置かれた境遇を思い知ったのだ。
生きるためなら何でもする。そういう人間たちが集う場所なのだと。
指先で触れた兄の肌に、そこを覆う無数の傷跡をなぞって反芻するうち、無意識のため息が漏れる。兄の言う"だから"、は理由にならない。俺もいつかは兄のようにならなくてはいけない。完璧な黒よりももっと濃い色、触れると粘性をもって指に絡みつきそうな、或いは底なしの穴ぐらのように深々とした闇、それを、具現化したような形に。
「――おい」
「ん、」
ふと呼ばれ、顔を上げる間もなく抱き上げられる。自らの膝の上に俺を乗せ、歪に笑ってみせた兄は当たり前だが携帯電話を持っておらず、通話がいつの間にか終了していたことを知った。
結局何が起こったのかは一切語られず、触れようと伸ばした手は触れてくる手に阻まれ、頬に冷たい感触だけが残る。
「悪かったな」
こんな家系に生れ落ちてしまったことを憎むべきなのか、刷り込みによって置かれた環境に疑いを持たない兄を哀れむべきなのか、時折考える。ここから逃れられるとは思っていない。けれど、もっと真っ当な生き方があるのだと、それを手にする希望が自分たちにもあるのだと、なにより俺は信じたかった。
「…ううん、」
たとえば、頬に触れる温度はずっと消えないのだと。向けられる兄の瞳が永遠に優しいままでいるのだと。
「ううん、兄さん」
俺も、あなたと一緒だよ
掌に唇を押し付けて隠した言葉に、擽ったそうに腕が引かれ、逃げた。