風の帰る場所
――がちゃ。
屋上のドアが開く。オレンジの髪を、かすかに風にそよがせながら、千石は伸びをした。
「おー、気持ちいー! っと、亜久津いたんだ?」
「……ケッ」
にっこり笑う千石には応えず、校舎を背にして座っている亜久津は、再び煙草を口にする。
「一本ちょーだい!……って言いたいとこだけど、今のキヨスミくんはガマンの子なんだよ。えらい?」
千石はにやっ、と笑って自分を指差す。
「こんなとこでたわ言ほざいてていいのかよ。部活じゃねーのか」
「あれ、あっくん心配してくれるの? キヨ嬉しい!」
調子に乗って投げキッスをする千石のキスの軌道を、亜久津は持ち前の反射神経で思わず避ける。
自分でも意外だった反応か、もしくは千石の言動が気に障ったのか、亜久津は仏頂面で「ドタマかち割んぞ……」とうなる。
「あはっ、ジョークジョーク。部活、今日はお休みだよん。ま、オレはこれからヤボ用があるんだけどねっ。けど、まだ時間あるからさー、ちょっとあっくんの顔見たくなっちゃって」
「フカシこいてんじゃねー。ハナっからオレがいることなんざ気にしてなかったんだろうが」
亜久津は言葉と煙を吐き出す。それには応えず、千石は屋上のフェンスにつかまって、遠くを見はるかす。
「風……気持ちいいよね。他人とは思えないし、ほんとに風になっちゃいたいこともけっこうあるし」
千石は目を細め、亜久津は何も言わず煙草をくわえていた。
しばしそこは、静かな風と時間に支配される。
「……部にいるとさ。ときどき『オレってヒーローかも?』って思っちゃうんだよねー」
もの言わぬ亜久津と風に、千石は話し続ける。
「東、西、南、北――もちろん、他のみんなもだけど――風向きや強さを変えてくれるから。だからキヨスミくんは、ラッキーな変幻自在のヒーローなの。……ねぇあっくん、オレ、今、カッコイイ?」
冗談めかした口調に笑顔を浮かべ、千石は振り返る。
視線の先の亜久津は風下に顔を向け、ただ煙を吐いていた。
「オレさー。自分のテニス変えようと思ってんのね」
ぽつりと千石が言った。
それは、亜久津に話しかけているようにも、千石自身に言っているようにも聞こえる。
が、亜久津は千石の言葉に応えた。
「ジジイに聞いた」
「そっか。……亜久津、『意味ねー』とか『関係ねー』とか思ったでしょ」
「…………」
亜久津の答えがないことを肯定と受け取ったか、フェンスを背にして、千石は屈託なく笑う。
「亜久津はやっぱ強いし、カッコイイよ。でもね、オレも――オレたちも、負けないから。凡人テニス部だけど、負けないから」
「お前はヒーローなんじゃねーのか?」
校舎に寄りかかり、亜久津は揶揄するような口調で千石を煙草で差す。
が、千石は動じた様子もなく、余裕の笑みのままだ。
「まだオレはヒーローじゃないよ。ぜーんぜん凡人。でもね、みんなが信じてくれてるから、それを裏切らないように、こっそりがんばるの。ほんとはみんな、そうやってがんばってるみたいだから……その倍以上がんばって、本当のヒーローになって帰るのだ!」
千石はえっへん、と胸を張ったあと、「それにね」と言葉を続ける。
「テレビとかの変身するヒーローだって、元のカラダ鍛えたら、変身後はもっと強くなるはずだと思わない?」
「そんなに周りの期待を裏切るのが不安なのかよ。あんなちっぽけな部で、勝手にそう思われて……そんな場所、テメェのいるトコじゃねーと思わねーのか」
うーん、と千石はしばし記憶をたどるような表情をする。
「正直、最初は思ってたかもしんない。だけど、あの部のみんなが変えてくれたよ?」
「それが思い違いなんじゃねーのかよ」
「……ねぇねぇ亜久津、もしかして寂しいの?」
「ケンカ売ってんのか!」
「そう聞こえたんだったら、亜久津の考えすぎー」
飄々と答え、千石は風のように身を翻す。
「あのね、亜久津が思ってるほど、あの部は狭くないよ。少なくとも、亜久津の居場所があるくらいにはね」
屋上のドアを開け、去り際に千石は笑顔で手を振った。
「んじゃ、ばいばーい!」
そして屋上から千石の姿が消える。
「……好き勝手言いやがって」
吐き捨てるように亜久津は言い、校舎の壁に煙草の火を押しつける。
そして二本目の煙草を取り出そうとしていると、屋上のドアがまた音を立てた。
オレンジの頭が戻ってきたのだろう、と思ってそちらを見た亜久津の予想は、裏切られた。
「亜久津か」
それは、千石との間で話題になっていたテニス部の部長、南であった。
亜久津はまったく応える気配もなく、そっぽを向いて煙草に火をつける。
「おい、千石……見なかったか?」
決して親近感を持っているとは言えない口調だが、南は亜久津にそう尋ねてくる。
「知るわけねーだろ。それに、今日は部活がねーんじゃねーのかよ。こんな日まで部長様に探される部員は、たまったもんじゃねーよなぁ?」
嘲弄するような調子で言い、亜久津は皮肉な笑みを浮かべた。
「そんなのじゃ……」
南が反論しかけるのを、亜久津がさえぎる。
「そうやって、他人に勝手に期待押しつけてきたんだろうが。クソウゼェんだよ、テメーら」
南はため息をつく。
「……お前がどう思おうと、それこそ勝手だけどな。千石にそれ、言うなよ」
その返答に、亜久津はせせら笑う。
「やっぱり、言われたら困るんじゃねーか。そんなにいい子でいてーのかよ」
「違うさ」
意外にきっぱりとした口調で、南は否定する。
「むしろ逆に、必要以上のプレッシャー感じられたら困るんだよ。ただでさえあいつ、最近けっこう気にしてんだから……しかも、人に知られないように気にするから、あんまり抱えこむなって……ああもう、お前に言うことじゃないんだよ」
ぶるぶると首を振った南は、地上にオレンジの頭を見つける。
「あ、あいつもうあんなとこに……今日も一人でスクール行くつもりか! あんまり根詰められると、こっちも調子狂うんだよ、ったく……」
南は回れ右をし、校舎に入ろうとする。
――が、一旦足を止めて亜久津を指差した。
「煙草。やめろとは言わないけど、吸い殻は片しとけよ」
「テメェには関係ねーだろが。オレに指図すんじゃねーよ」
「……お前がいつ戻ってきてもいいように、太一が毎日ロッカーの掃除してるんだよ。まったく無関係でもないだろ。じゃーな」
今度こそ、南は校舎の中へ消える。
――亜久津が思ってるほど、あの部は狭くないよ。少なくとも、亜久津の居場所があるくらいにはね……
風に乗った千石の言葉が、帰ってきた気がした。
「やっぱウゼェ……」
つぶやいた亜久津は、煙草の火を消し、傍らの空き缶の中に入れた。