梔子の花
学園長先生のおつかいだといって朝方学園を出て行った同室者は、日も落ちる頃になってようやく戻ってきた。
それはよくあることだし、むしろ早く戻く済んだといってもいい。日帰りで済ませられるような”おつかい“は、低学年の役目だ。
ただ、今回は珍しく滝夜叉丸を指名してきた。珍しいことだねと率直に言えば、溜息で返される。
ただでさえ学園長先生のおつかいは面倒なものが多い。しかも、この梅雨の時期に誰が好き好んで出かけたいと思うだろうか。
しかも、女物の着物を着て。
今日は朝から雲行きがよくなくて、昼過ぎからは雨も降り出した。
時折雨脚も強くなっていたから、難儀しているだろうなと思ってはいた。彼が向かった町からこの忍術学園までは、そこそこ距離がある。
案の定、流した髪はすっかり重みを増し、水を吸った着物は町娘であれば気の毒にも思える。それを脱ぎながら、滝夜叉丸は振り返りもせずに返して来る。
「かぐわしい?」
「花の匂い…? 移り香がする」
彼が動くたび、香る甘い匂い。それに思い当たる節があるのか、ああ、と呟く。
「梔子だ。文とともに預かって戻ったからな」
落とした帯はそのままに、着物を干していく。一番大事なのは着物かと少しばかり呆れながら、着替えを行李から出してやる。その間も、甘い香りが鼻をつく。
「……忍術学園に戻るのに、そういうものを持ち帰るなんてお前らしくない」
残り香を残すのは、足跡を残すのと一緒。優秀な忍たまを自称する彼らしくないことだろう。乾いた手ぬぐいを差し出せば、慣れた手つきでぬれた髪を包んでしまう。
「持ち帰るのも、忍務のうちだ。なにかの暗号かもしれない」
露わになった白いうなじ。そこに残る赤い染みに、ふぅんと気のない返事を返すと吸い付いてやる。濃くなる花の香りは、着物のみならず髪にも移っている証拠。
「おい、喜八郎っ!」
「風呂入るんでしょう? だったら先に汚しても気にならない」
「……冗談じゃない。疲れて戻ったのに、お前にまで付き合えるか」
「たかだか町まで行って戻ってきただけで? 嘘はもう少し上手くつきなよ」
うなじから首筋、そして耳朶へと舐め上げれば、まるで達したときのように震えてみせる。平素ならば、この手のいたずらに反応する男ではないのは知っている。
わざわざ滝夜叉丸を皿に盛って、どこに持ち込ませたのだか。
湿った襦袢を落とせば、よせ、ともう一度強く止められる。嫌がる理由はわからないこともない。だけど。
「忍務なら、気持ちよくなれてないでしょ?」
一瞬絶句した友人の隙を突いて、床に転がしてしまう。
滝夜叉丸は声を上げたがらない。
色気がないと言えば、お前に色気など出してどうすると呆れられる。ただ、追い詰めれば、普段の意地っ張りなどなかったように簡単にすがってくるのが面白い。
埋めた指を曲げて伸ばしてやれば、赤く染めた顔を嫌だと振る。いつもは快感の裏返しだけど、今日のこれはなんだろう。
「すぐに処理しないと腹下すよ?」
「その暇が、なかったんだ…っ」
何も使ってないのに、彼の股はしとどに濡れている。色の任務もそれなりにこなしている男にしては珍しい。
代わりに髪を拭いていた手ぬぐいで拭ってやれば、ほぅとため息をつく。
「…今日は駄目だ。学園長先生の伝手といえど、何かあるかもしれない」
だから、口でしてやると身体を起こす。その滝夜叉丸の肩を押してもう一度床に転がせば、ふわりとまた、花の香りが漂う。
「喜八郎っ!」
「ぼくは気にしないよ」
「私が気にするんだ! お前に万が一、変な病気でもうつしてみろ…私が責められるんだぞっ」
「自己責任だって」
五月蝿いよと唇を塞いでしまえば、嫌だとばかりに首を振る。まったく、過保護もいいところだ。
忍たまとして、ここでは皆さまざまなことを学ぶ。滝夜叉丸みたいに忍務として実践に入る奴だっている。でも、その中で、必ず守られる奴はいる。
――たとえば、鉢屋三郎先輩。たとえば、綾部喜八郎――。
敏感になっている身体を弄れば、赤みを帯びた唇から非難の声以外のものが漏れる。
「喜八郎…っ、頼む…から……っ」
「……ぼくだって、色の忍務のひとつやふたつ、やってもおかしくないと思わないかい?」
こんなにお前と抱いたり抱かれたりして、経験を積んでいるのにさ。
耳元で囁けば、手のひらで愛撫するものが震える。なのに涙目でこちらを睨む男の顔が、不意に緩む。
「花が…私には梔子の花が似合うと思わないか?」
唐突な言葉に、あきれたと軽く肩をすくめて頷いてやる。
「綺麗好きな滝夜叉丸には、似合いかもね」
「お前は、花の移り香より土汚れのほうが似合う」
否定をこめた言葉とともに白い指先が伸びて、人の頬を軽くつねる。痛くもないそれに唇を尖らせれば、腕はそのまま背に回される。
「……だから、こういうことは、私に任せておけ」
着物の上からも、わかる指先の温もり。誰も彼も、いつもこうだ。
「拗ねるな」
「…………お前がやらせてくれなきゃ、機嫌は治さない」
自分が置かれた立場はいつの頃からかなんとなくわかっていたし、立花先輩に面と向かって言われたことだってある。だけど、それがなんだというのだ?
どうせ大事にされたところで、明日ぽっくり豆腐の角に頭をぶつけて逝くかもしれないのに。
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てれば、オイ、と髪を引かれる。
「だったらせめて、先に風呂を使わせてくれ。濡れたままでは風邪をひく」
それが滝夜叉丸の妥協点。なんだかんだと、この男は甘い。これが六年生なら、絶対放置だ。
ただ、拒絶しない友の存在に救われているのも自覚しないでもないから、わかったと上から退いて手を伸ばす。
「じゃ、一緒に入ろっか」
このまま有耶無耶にしたかっただろう男は、ため息をついて手を取った。