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覆水

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天の高みには欠けるところのない白い円があり、夜半を過ぎた今もまだ庭は明るい。
 故郷にいた頃は満ちた月が照らす地面の明るさなど知らなかった。月のない夜の輪郭さえ失いそうな闇の深さを知ったのも、この地に落とされてからだ。
 異郷は将臣がそれまで知っていた常識も倫理も受け入れてはくれず、はじめの頃はこれは悪い夢なのだとしか思えなかった。夜が明ければ遠のいていく、長い夢なのだと、そう思わなければ気が狂いそうだったのだ。
 だが幾度夜を過ごし朝を迎えても将臣は夢から抜け出せずにいた。
 今となっては、光に満ちたあの世界で家族や幼馴染たちと過ごした柔らかい夜こそが、朧に霞んだ遠い夢のように思える。
 否、既に将臣は、あの日々を夢として胸のうちに眠らせることを選んでしまったのだ。もう戻れない夢に縋るより、血腥いこの地で生きるをうつつとするのだと。
 酒を満たした盃を片手に、将臣は天を仰いだ。
 白い月は穢れを知らぬかのように下界を見下ろしている。
 自分はもう、どうやってもあの場所へは帰れないのだ、と将臣は嘆息した。帰れない以上ここで生きるより他にない。その事実を折に触れて確かめずにはいられない己の弱さに苦笑が洩れる。
「――姿が見えぬと思えば、このような処で月見酒とは」
 ぎしりと簀子が鳴るのと低い声が闇に響くのが同時、振り返らずとも誰かは知れた。どうせ月の色に似た男が、幽玄の幻のように後ろに立っているのだろう。
「父上がお探しでしたよ、重盛兄上」
 その呼び名に、将臣は舌打ちをした。声は揶揄を含んで笑っていたから、単なるいつもの嫌がらせだ。応えを返すのも面倒になり、ただ黙って盃を傾けぐいと呷る。
 だがそれで引き下がるような相手でもなかった。
「勝利の宴に主役が居らぬとは如何なものかと。入道殿のご機嫌を損ねぬうちにお戻りになってはいかがです」
「……面倒なのは嫌いなんだよ。お前が帰って相手をしてやれよ」
 ひらりと片手で払う仕草の将臣に、知盛が低く笑う。
「還内府殿は随分とご不興のようだな。血にでも酔ったか?」
「まあ、そんなところだな。悪酔いして気分が優れないから相手は出来ないとでも爺さんに伝えてくれ」
「存外つまらぬ男だな、お前も」
「そりゃ良かった。俺もお前に面白がられても嬉しくねえよ」
 知盛は鼻で笑い、簀子に腰掛ける将臣の横に腰を下ろした。将臣の手にある空の盃を横目で見て、俺にも寄越せなどと嘯く。将臣は瞬いてから破顔して、酒を持ち上げ盃を満して隣りの男に渡してやる。受け取った盃を知盛は一息に干した。
「お前こそ、こんな処で油を売ってていいのかよ。宴もたけなわってやつだろ」
「祝いの席など退屈なだけだ。そもそも、兄上には言われたくありませんな」
「お前ってほんとに嫌な奴だな」
 しみじみとぼやきながら、将臣は再び空になった盃に酒を注ぐ。なみなみと注がれ揺れる水面に、ふいに白い月が踊った。酒を持つ手が止まる。
 もう二度と手が届かないと思ってたものが、不意に掌に転がり落ちたような心地がした。
「――月の都へ帰りたいか、有川」
「違う、そうじゃない」
 問いの意味を咀嚼するより早く即答してから、将臣は我に返ったように眉をしかめた。これではまるでまだ諦めてはいないのだ、帰りたいのだと言っているようなものだ。月を映して揺れる盃から目を逸らし、重く息を吐く。
「……本当に、恋しいわけじゃないし、それにもう帰れないのはわかってるんだ」
 昼に、初めて戦場に立った。
 その時に学んだことは躊躇えば殺されるということと、刀は人を斬る武器ではなく叩きつけるものなのだということだ。特に将臣の持つ太刀は重量のある鉄の棒と同じようなものだった。血と脂とで刃は直ぐに鈍るが、潰れた刃でも骨を砕くことは出来る。
 名も知らぬ男の頭蓋を叩き割った感触は、太刀を置いた今も微かな痺れのように手に残っている。己が肉塊に変えた人間が、地面に伏せて動かなくなるのを見て、そうして漸く悟ったのだ。もはやここより他に帰る場所などないのだ、と。
 幼馴染の柔らかな髪を撫でることも、弟の背を叩いてやることも、もう二度と出来ない。
 この痺れが掌に残る限り、彼らに触れることなど己自身が許せないだろう。仮にあの夢に帰る術があったとして、帰ることなどできはしないのだ。太刀を振るうと選んだあの時から、ここで生きるより他に将臣に選択肢はない。
「ここで生きていくと決めたからな。だから本当は、還内府って肩書きもそう悪くはないと思ってるんだぜ。むしろ、ラッキーだったんだろうな」
 少なくとも死んだ男の名は、将臣に生きる場所と戦う理由を与えてくれた。
「ラッキー…?」
 異郷の言葉を捕えて知盛が怪訝な顔をする。将臣は笑いながら知盛の手から盃を奪った。その拍子に触れた手から乾いた熱が伝わる。生きている人間の温度だ。
 遠い夢にはもう触れることは叶わないが、同じように血を被って戦う男が傍にいる。守りたいと思うものもある。それはそう悪いことではないのだろう。時折、寂しさが胸を突くのは明け方の夢が連れてくるような、ささやかな未練に過ぎない。
 将臣は酒に映る月をちらりと眺めてから盃を地面に放った。

「この身の僥倖、ってやつさ」

 地を濡らし、空になった盃に月はもうなかった。

(初出:060712)
作品名:覆水 作家名:カシイ