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朝の来ない夜などない

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夢のようだった。
生温い羊水の中で安らかに揺蕩っているような少し眠たく、気だるい感じをいつの間にかコナンの中で新一は日常と名付けるようになった。弱く握りしめたこの世界を、誰にも壊されたくはない、このまま意識の淵を緋色の沼に埋めてしまいたいと。
「朝の来ない夜はないのですよ、名探偵」
耳元で悶えるように熱い怪盗の唇が、そっと掠めるように新一に言葉を吐いた。
「いつまでそのような薄暗いところで丸まっているつもりですか、」
奴の白い手が、ぬっと伸びて一瞬ヒッ、と首を竦めた新一の柔らかな頬をそっと撫でた。
「貴方らしくもない」
最後に、怪盗のぞっとするような漆黒の瞳が新一を確かに貫いて、奴の唇が新一のそれと重なった。怪盗の唇から生温かい舌がまるで生き物のように這いずり回るのを、為されるがままにして再び新一の意識は混沌に飲み込まれた。

「御目覚めですか、お嬢さん」
耳障りなマントがはためく音に眉を顰めつつ薄目を開くと、赤い鉄の柱に優雅に腰掛けて微笑んでいる怪盗と目が合った。
組んだ脚で頬杖をついている怪盗が小首を傾げて、ん? とちょっと小悪魔みたいな笑みを向けているものだから瞬間、新一は心臓が止まるのかと錯覚した。
「ここは……」
口の中が乾燥していて掠れたような情けない声しか出てこない。怪盗は黙って立ち上がると恭しく新一の手を引いた。2人は強風の中立ち上がる。
「あまり下を見るのはお勧めできませんね……、ココ、300m以上はありますから」
気障に口角を上げて笑うが、内容はとても笑えたものではなかった。
「なんたってあのタワーの柱ですもの」
肩をすかして怪盗はやはり笑い続ける。
「てめえ……っ!」
見上げた怪盗の腕を払おうとして初めて怪盗との身長差に気がつく。意識はゆうるりと首を上げ、新一は自分が何者か悟った。(だからお嬢さん……、ね)
「暴れると落ちますよ、名探偵」
風が強い。この小さな体では実際怪盗に支えてもらわないと飛ばされていってもそれは道理だと思える。悔しいが新一は今”江戸川コナン”だった。
「出来ればもう再会などしたくなかった……、しかしこれも探偵と怪盗の宿命と言う奴でしょう」
怪盗の一々何処かの舞台の台詞めいた口調が、新一を苛々させる。飛ばされそうなくらい緩く掛けてあった度などはなから入ってなどいない黒縁を掌で押し上げた。
「いつまでそんな馬鹿げた口調で俺に話しかけるつもりだよ、稀代の怪盗さんはよ」
新一がようやく彼本来の口調に戻ると、怪盗は若干残念そうに眉を寄せた。
「会いたくなかったのは本当だぜ。探偵となんて追いかけっこだけで十分だ。ましてやお前のこんな姿……、たまったもんじゃねえ」
「バーロー、俺だって願い下げだ」
はあ、と溜息を吐き出したところで2人の会話は途切れた。怪盗が痛いくらい新一たるコナンを凝視している。睨んでいるに近いそれを、快くは思うはずもなく。
「……いつまで見てんだよ」
憎々しげに怪盗の瞳を覗きこんだ瞬間ハッとした。怪盗は素早い動きで屈み込んで新一に顔をぬっと近付けた。彼の形の良い唇が触れてしまいそうだった。
「あ……んだ、よ」
「お前、このままでいいのかよ」
新一が知らないような怪盗の、澱んだ声色だった。何処か、底なしの泥水に引きずり込まれてしまいそうな、寧ろ腐り果てた沼から引きずり出されてしまうような、そのどちらでもいいし、どちらでもないような、そんな。
「お前の日常はもっとこっち側だったはずだろ、あんなのお前らしくねえよ」
ああ、泣いてる。絶対にそんな筈はないのに、新一には確かに怪盗が声を上げずに泣いていると感じ取れた。彼の涙はそのままモノクルの反射の陰に吸い込まれていると。
そっと小さな手を伸ばすと、微かに握り返された後、優しく放された。
「……なんでもない、忘れてくれ」
怪盗は静かに目を伏せた。新一の胸がこんな怪盗の為にキリキリと痛み、激しく動悸した。
「本当は、忘れた振りをしているだけだ」
怪盗が阿呆みたいに口を広げて、「え」と問いかけたが新一はそれきり黙った。だから代わりにもう一度だけ手を伸ばすと、今度はしっかりと力強く握り返され、安堵する。(俺は忘れているわけじゃないんだ……)(ただ、”江戸川コナン”が心地よいだけ……)
「俺、夢を見たよ」
「へえ、どんな?」
「どんな……どんなって……」
言っているうちに夢にしては随分と生々しい感触を思い出して憤怒と羞恥で頬の赤らみが増していくのを感じる。怪盗は目の前で餓鬼相手にニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべている。
「お前……!」
「ほら帰るぞ、お嬢さんを送り届けないと怖いお姉さんに怒られちまうからな!」
そう言うなり怪盗はコナンの小さな体をひょいと持ち上げてなんの抵抗もなしに柱の端を走って飛び立った。ばさあ、とまるで大勢の白鳩が飛び立つような音を立てて怪盗は再び白く輝かしいその身を闇に委ねた。
生きた心地がしないが、怪盗に無事に送り届けてもらうまでは静かにしていようと諦めた体は力が抜けていた。
怪盗は囁く。
「ちゃんとこっちに戻ってきてくれればいいんだ……」
聞き返さなくてもちゃんと聞こえている。
「朝の来ない夜はないんだ、名探偵」
夢の中と似たような台詞を吐く怪盗を、やはりどこか憎めず、新一は己が大概甘やかされた存在だと妙に照れくさく感じた。
そんな彼の頬を宵闇は包むように刺す。
作品名:朝の来ない夜などない 作家名:しょうこ