群青心中
茹だる様な夏の日差しを正面から抱え込む様にして、僕はゆっくりと天を仰いでは、ジリジリと焦げ付いて痛みを発する頬にすっかり温まった水をかける作業を繰り返した。
唐突の浮遊感は一瞬で、慣れてしまえばどういったこともない。浮くだけなら持ち合わせていない運動神経を、幼少の記憶の中から引っ張り出してくる必要もなく、強いて言うならば帰りの格好を思って暫し憂鬱になる位で、気分的にはとても爽快だった。
「・・・・・ふぅ」
全身で息を吸う。一瞬臀部が沈み込んで、それからまた浮上。何度繰り返しても僕は沈まない。時折小さく波打つ水面が鼻腔を直撃して咽る。でも、沈まない。
「先輩」
青く色づいたプールの真ん中、服を着たまま大の字に横たわった僕を、青葉くんは怪訝そうな目で見下ろしている。
「先輩、楽しいですか」
問うているのにさして興味もなさそうな顔をする。青葉くんも夏には弱いのかな。そんなことを思いながら言葉を返す。また、一瞬の沈没。それからの、浮上。
「涼しいよ」
「顔、焼けるでしょう」
「夏だもの、仕方ないよ」
「着替えは」
「ジャージ持ってる」
「じゃなくて、下着ですよ」
「それは・・・・我慢する」
帰りくらいはね。今、とっても気持ち良いから。照りつける太陽から目を背けるようにして青葉くんに笑いかける。真っ白いカッターシャツのボタンを珍しく第3まで開けた青葉くんの額から、つ、っと汗が伝った。
「青葉くんも入りなよ」
暑いでしょ、そこ。
「嫌ですよ。負けた気になりますから」
「負けたって、何に?」
「先輩に」
「・・・?なんで?」
「だって、嫌がらせのつもりで突き落としたのに・・・、」
プイ、と横を向いた青葉くんの姿から、そういえば自分がこんな風に服を着たままプールに浮かぶことになった原因を思い出す。子供っぽい横顔の中に確かに浮かぶ苛立ちがどうして、僕に向かったのだろうか?
考えても考えても思い出せない。何かを話していた。それは確かなのに、話の内容が頭の中で上手く言葉となってまとまってくれない。何か気に障ることを僕が言ったのだろう。その事実だけが僕の鼻腔を塩素の匂いでいっぱいに満たして、張り付いたシャツが関節の自由を奪った。
「ごめんね、何か気に障ること、言ったんでしょう」
覚えてないんだけど。
・・・でしょうね。
肩をすくめる青葉くんの動作が陽光に反射して揺らめく。その仕草とは反対に、プールサイドに座り込んでパシャパシャと水を蹴る姿はとても子供っぽい。彼の中にある大人と子供はいつも、当然のように同時に表に現われるから不思議だ。そう、思ったまま音に乗せると盛大に呆れられた。
先輩に言われたくないです。
・・・何それ意味わかんない。
「わかんなくて良いですよ。突き落としましたからもうチャラです」
「(・・・チャラ?)なら入ろうよ。気持ち良いよ」
「替えの下着ありませんから」
「だからそんなの僕もないってば」
「・・・先輩と一緒に開き直れってことですか?」
「うん」
だって気持ち良いんだよ。ぷかぷか浮かんで太陽に焦がされて、夏って感じ。替えの下着もなしに飛び込む無謀さとか、若いってことでしょ。
「だから、」
ゆらゆらと重力から解放されていた腕をおもむろに振り上げる。キラキラとした軌跡を描いて小気味良い音がして、額から流れるそれが汗なのかなんなのかの区別がつかなくなった青葉くんが一瞬、揺らいで消えた。青く沈み込む視界の中で世界が歪む。でも僕はそこからまた、照りつける灼熱の元に浮上した。
「・・・っ、もうだって、足元は、びしょびしょ、じゃない、」
「・・・・今ので上もやられましたしね」
「じゃあ「でも、」
長めの前髪をかき上げながら青葉くんは太陽を睨みつけて、それから視界を真っ青に染めてため息をついた。
「俺、」
「あんまり泳げないんですよ」
なんだそんなこと。そう思って僕は少し大げさに笑った。青葉くんは僕のどこを見て僕が青葉くんより泳げるのかと思ったんだろう。笑った拍子に鼻腔に入り込んだ水に少し咽ながら、僕は浮くのをやめてザラついた水底に足をついた。水色を掻き分けて青葉くんの手を取る。
「浮くだけなのに、泳げるかどうかとか関係ないよ」
「俺、あれも苦手なんですって」
「教えるよ」
「でも・・・・・わっ、」
バッシャーン、と。小気味良いの限度を超した声を上げて、青葉くんが水色に落下する。一瞬の間の後、コポコポ、なんて大事な酸素を逃がしながら青葉くんが僕の腕をとって浮上した。
「ひどっ、い、です、せんぱい」
しがみつかれた、という方が正しいかもしれない必死さで掴まれた腕は痛いけれど、冷え切った僕の体に、温度を残した青葉くんの掌はなんだか心地良く感じるのだから不思議だ。
涼しさに飽きたのだろうか。
また茹だるような暑さが恋しくなったのだろうか。
ともすれば僕はとんだ我が儘男だなぁ・・・なんて思いながら言葉を返す。
「ごめんね、でも、おあいこ」
笑いながら青葉くんの手を引いて、プールの真ん中に戻る。一本だけ残された黄色の浮きに手をかけて、僕はまた太陽から目を背けるように、青葉くんに笑いかけた。
「先輩、俺ほんとに、」
「大丈夫だよ、青葉くんが溺れたら僕が助けてあげる」
「・・・先輩そんなに泳げるんですか」
「いや?でもほら、僕、沈まないし」
泳げはしない。でもきっと沈まない。
「いざとなったら浮きを掴めば良いでしょ。黄色だから目立つよ」
「・・・・・・・」
「沈んでも、浮上の目印になるから、大丈夫」
体重をかけて浮きの空気の入りを確認しながらそう呟くと、青葉くんは盛大に顔をしかめたあと、何故か僕を抱きしめた。細い腕がぎゅうぎゅうと絡みついてくるものだから、見た目以上に苦しいし痛い。ぅ、と小さく呻いてずらした視線の先で、水色に溶ける前のカッターシャツが僕の視界を白く焼いた。
「青葉くん、どうしたの」
反射的に強く掴んだ浮きから、僕の指を解くように、青葉くんは僕を抱きなおす。
「先輩俺、ほんとに全然泳げないんです」
「うん、それはだから、」
「だから多分、先輩も引きずりこんで溺れると思います」
「大丈夫だよ、だって僕は、」
「だから先輩、一緒に死んでください」
「・・・・無理だよ」
耳元に落ちる言葉はとても透明で、それからすぐ、僕の身体は青葉くんと一緒に水色に沈んだ。
コポコポと弾ける生命の片鱗は僕の身体を離れて、青葉くんの肩越しに水面に上昇していく。それを眺めながら僕は、絡みついた青葉くんの腕を引き剥がすより先に、一気に遠くなった黄色へ、重くたゆたう両腕を伸ばした。
「無理だよ」
水色の中に解けていく言葉を、青葉くんが拾えたのかどうかはわからない。だから僕は優しく諭すように、彼の背中に爪を立てた。
僅かに緩んだ腕の隙間から、僕は静かに浮上する。
「だって、」
右手に絡め取った浮きがカラカラと音を立てて笑う。同じように、水中に蹲る青葉くんの伸ばした腕には、見ない振りをして僕も笑った。
「だって僕、・・・・・・沈まないもの。」
***