背中合わせの不幸
今日もまた、いつ彼が帰ってきても自分が迎えられるように。自ら子どもはやってきた。
健気だねェ、甲斐甲斐しく事務所に足を運ぶ子どもを眺めてそう評したのは赤林だった。
童顔に似合わない緊張を表情に孕ませた子どもはしかし、赤林の揶揄の言葉に食って掛かるでもなくまっすぐ奥の部屋へ続くドアへ足を向けその前で立ち止まった。いつものルート、などと言うまでもない短い道のりだ。寄り道などしようもない。
その後の行動も至っていつもどおりだった。立ち止まったドアの前でそっと息を吐いた子どもは、コン、とひとつだけドアを軽く叩く。
大人の男の手で出すにしては加減が難しい軽い音は、相手が子どもであるとドアの向こうに知らしめる丁度良い合図となっている。
「どうぞ」
ドアを挟んだ向こう側から少しくぐもった返事が返る。促されるようにドアを開け、その向こうに消えていく小さな背をなんとなしに眺めていた赤林は、いつも通りの飄々とした表情を顔に貼り付けたままその隻眼を面白げに細め、再び同じ言葉を誰に聞かせるでもなく呟いた。
「健気だねェ」
この大人は、いつ見ても食えない顔ばかりしている。
というより、それ以外の顔を見たことがない。いつもどおり、深い焦げ茶色をした重いドアをくぐりその部屋に入った青葉は、やはり変わらぬその顔を見、そして部屋に目当ての人物がいないことに思わず舌打ちをしそうになった。
すんでのところでそれを堪えた自分をやはり褒めてやりたいと思う。
この大人を一目見たとき、折原臨也とはまた違った、むしろあれより数段厄介な大人だとすぐさま悟った。折原臨也はつぶしてやりたいと思うけど、この目の前の男に対してそういう気持ちがわくことは一切ない。というかそもそも関わること自体を遠慮したいタイプの人種だ。この男の職業を顧みれば余計にそう思う。
ではなぜ青葉は今そんな男の前に立っているのか。
その理由はただひとつ、暫定リーダーの位置に立つ、彼のせいとしか言いようがない。
その彼直筆の指示が書かれた便箋が入った封筒を、今日も青葉は彼ではない人物から受け取る。
「今日の分です」
ああ、不愉快甚だしい。
口に出せない罵詈は今日もまた青葉の腹の中でじぐじぐと煮詰められることとなる。
「・・・どうも」
仰々しい手つきとぶっきらぼうな口調というちぐはぐな青葉の対応にもこの大人は何も言わない。むしろ用が済んだならとっとと出て行ってもらって構わないといった態度だ。青葉の想像でしかないが実際そう思っているのだろうことが感じられる無関心さを向けられ、青葉は嗚呼と静かに嘆息した。
(・・・)
そして今日もまた、何度繰り返したかわからない問いかけを今ここにいない彼に向かって投げかけその部屋を後にした。
(どうして貴方はこう一癖二癖ある人間にばかり目をつけられるんでしょうね、)
この子どもは、いつもどこか地に足がついていないような危うい目をしている。
そんな子どもは今日もまた訪れた四木には目もくれず、ベッドに腰掛け窓からごみごみと道を流れる人の波をそんな目をして眺めている。
与えたパソコンの電源は入っていないようで、彼自身の携帯電話もベッドに無造作に放られていた。それを見て今日の作業は終わったのだろうかと勝手にあたりをつけた。
・・・子ども以外のブルースクウェアメンバーを再起不能にするか、子ども一人の身柄拘束か。
(恐らくこの子どもからすれば)突然目の前に現れ、笑顔で択一に見せかけた一択を迫ったのは紛れもない四木だった。
案の定子どもは後者を取った。なんだかよくわからないけど逃げることはできなさそうなので、と言った子どもは、自らの発した言葉と状況になんともそぐわない表情を浮かべていた。
幼い顔に薄く笑みを刷いた楽しそうなそれは、未だ四木の記憶に焼きついている。
(そういえば、ここに来てから見ていないな・・・)
ふとそう思った四木はとりあえず、彼の名を呼ぶことにした。
無視されているわけではないとわかっていたが、それでもなぜか彼の気を引きたかった。
ええと、たしか。
「竜ヶ峰くん、でしたか」
この人は、いつも薄く笑ってるけど少しだけこわい。
外は、というか人はいくら見ていても飽きないからと、帝人は暇さえあれば窓の外を眺めていた。どこぞの情報屋さんのように人間観察が趣味なんて主張する気はさらさらないけれど、それでも地上を流れる人々の離れていても伝わってくるかしましさやらは、沈黙の満ちる部屋と帝人の心に心地よいざわめきをもたらしてくれたから。
しかしそれも今日は珍しく声を掛けられたことによりあえなく中断することになった。
帝人は部屋と心に沈黙が満ちるのが嫌で、あえて少しだけ大きな声で返事を返した。
「はい、」
(・・・あれ?)
顔を向けたあとに掛けられた言葉を噛み砕いた帝人は、この人はこうして自分を捕らえておいて名前も知らなかったのかと首を傾げた。
そもそも声を掛けられたのさえ軟禁され始めてからこちら、初めてのことだったかもしれない。
「・・・」
しかし、目の前の大人は人の名を呼んだものの一向にその先を続けようとしなかった。
(名前を確認したかっただけなのかな・・・?)
だから勝手にそう結論づけて帝人はまた視線を外に移そうとした。そう、移そうとしたのだ。
簡単に言えば、それは叶わなかった。
目の前の大人に、流れるような動作で顎先を捕まえられたからだ。
「そういえば君は、なぜ自分に危害を加える選択肢がないのかと、最初に聞きましたね」
「・・・はい」
唐突に質問され、表面に出さず慌てて記憶を掘り起こした帝人は頷けない顔の代わりに声で是と返す。
(今日はよく喋りますね、なんて言ったらこの人は怒ってしまうだろうか)
ぞくりと粟立った背筋から意識を逸らすために帝人は思考を飛ばしたのだが、ふと気付くといつの間にか視界には天井が広がっていた。
(あれ・・・あれ?)
「理由を教えてあげましょう、か」
これまで何度も帝人が身を沈めても無言を貫いていたベッドが、はじめてひとつぎしりと鳴いた。