春の嵐にご用心!
同僚である男に視線を向けられることは日常に多々見られる事象の一つである。別段不思議がることではなかったが、このとき、ジノは確かに違和感を覚えていた。
違和感の原因を探ろうと、こちらを見つめるスザクに正面から視線を合わせた。大きな緑の瞳に、自分の姿が映っている。
午後の休憩時間に、珍しくスザクが声を掛けてきて二人でお茶を飲むことになった。ラウンジのバルコニーに小さなテーブルでお茶席を設けて、外の空気を吸いながら淹れ立ての紅茶の香りを楽しむ。楽しむはずだったのだが、運ばれてきたティーカップに手をつける前にスザクがこうして、ジノの顔をじっと覗き込み始めたので何となく微動だにできないでいる。
男二人で至近距離で見詰め合っている今の状況は傍から見れば異様な光景であろうが、幸いバルコニーにもラウンジにも二人以外に人影はない。
庭園の花の香りを乗せた穏やかな風に撫でられて、スザクの収まりの悪い髪がふわふわと揺れた。僅かの間額が露わになって、童顔を際立たせて見せた。
表情から今のスザクの心情を察することはできない。大きな目をじっと凝らして、砂の城を懸命に作る小さな子供のような、真剣な眼差しでジノの顔を注視している。
確かにスザクは、男にしては可愛い顔をしている方だと思う。しかし『男にしては』という枕詞が付属する以上、ジノにとって外見の美醜は興味を引く要素ではない。また、自身との比較も無意味だと思っている。自分の方が優れているに決まっているからだ。
「あの、スザク」
ジノが沈黙に耐えかねたようにおずおずと口を開くと、スザクは一度、弾かれたように目を大きく開いて瞬きをした。密に生え揃った濃い睫毛が上下に動く。
自分に比べれば華やかさに劣るが、よく見るとなかなか整った顔立ちの男だとジノは改めて同僚に評価を下した。そうしてそれがどうしたのだと、すぐに己の内で評価を取り下げる。
「そうか」
驚いたような表情で、スザクが小さく呟いた。
「どうかしたのか?」
「うん、どうかしたみたいだ」
そう答えると、スザクは先程までの幼い表情を消して、口元に柔らかな笑みを浮かべて瞳を細めた。初めて目にする表情だった。その表情を見て、ジノは俄かに両肩に力を込めた。同時に鳩尾がきゅうと締め付けられるような感覚に襲われて、疑問に思っているうちにそんな考えを吹き飛ばすような言葉がスザクの唇から投げ掛けられた。
「君のことが好きみたい」
「それは………ありがとう」
当然、当然ながら疑う余地もなく、同僚として、同年代の友としてという意味だろう。大丈夫だ、ちゃんと分かっているとジノは必至に自身に言い聞かせながら、何とか唇の両端を上げて笑みをつくったが、きちんとした笑顔になっているかは怪しいものだった。
心を落ち着かせようとティーカップに指を伸ばしたが、ソーサーから少し浮かせたところで指を滑らせて取り落としてしまった。思ったよりも動揺している自分に、更に動揺する。カップがソーサーに当たって耳障りな音が響く。
「ジノ」
自分の失態に羞恥心を覚えながら零れた紅茶に視線を落としていると、間近で自分を呼ぶ声がして反射的に顔を上げた。
「ス…」
ジノの驚きも動揺も呼びかけようとした名も、全てスザクの唇の中に消えた。
一瞬触れただけの掠めるような口付けをジノに残すと、スザクは元通り椅子に座り直してにこやかな表情を浮かべた。
「僕の好きはこういう好きだよ」
ジノの思考は停止した。それでも目の前の男から目が離せなかった。スザクはテーブルに肘をついて、手の平に顔を預けながら楽しげにジノを観察している。
耳鳴りが煩いと思って、すぐに自分の心臓の音だと気がついた。
急に気温が上がったと思って、すぐに自分の顔が火照っているだけだと気がついた。
陸に打ち揚げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉していると、スザクがクスリと笑ってまたジノの体を硬直させた。
「怒らないんだね」
今度は息を止められた。
そうだ、どうして怒りが湧かないのだろう。それどころか、嫌悪感さえ湧いてこない。ジノはれっきとした異性愛者だ。相手は男だ。これは由々しき事態だった。
「やっぱりジノは可愛いなあ」
心底楽しそうな声を頭上から浴びながら、ジノは両手で顔を覆ってテーブルの上に突っ伏した。
「奪われた…」
奪われた、攫われた、持って行かれた。
唇も、それから、自分が十七年かけて築き上げてきたその他の大事な色々なものも。
ジノは膨れ上がる羞恥心を何とか体外に逃がそうと小さく呻いて、動かした唇に未だ残る柔らかな感触に気が付いて、そうして、大声で泣きたくなった。