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オージーボカン 風雲ハリウッドヒルズ

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午前のトレーニングメニューの終了は正午ギリギリになって、ジェニファーが隣の家との煉瓦塀の近くに用意してくれたテープを切ってゴールした。
 彼女のかわいい思い付きに付き合うのは悪くないとトビーは思っている。芝生の上に散らかったテープを後で片付けるのは彼の役目でも。
「トビー、ほら、お水よ」
 よく冷やしたミネラルのボトルを一本ずつ両手に持って、トビーの火照った頬に押し当てたジェニファーが優しく微笑む。
 ボトルを受け取ったトビーは荒い呼吸のまま目を伏せて、頬や首筋に押し当てた。
「ああ、もう…口閉じれない…苦し…」
「はいはい。もうちょっとだけ辛抱してね」
 飲料用に常温に戻しておいたミネラルウォーターのボトルを切るのをせわしなくも大人しく待っていると、トビーはなんだか彼女の飼い犬の気持ちになった。
 もしそうだとしても悪くない。彼女は優しい飼い主だ。
 ジェニファーはトビーの下唇にボトルの口を当てて、ちょっとずつ傾ける。一気に飲んじゃだめよ、ゆっくりねと、子どもに教え諭すようにトビーを注意深く見守る。 
 こういう時に飲む水の温度は常温の方がいいのだ。急に冷たいものを流し込むのは内臓に負担が掛かるし、カロリーの燃焼が台無しになるらしい。
 彼女の真剣な面持ちに、こっちの冷たいやつ思いっきり飲みたい!!という気持ちをかろうじて抑えて、だいたい三分の一を飲んだあたりでトビーは冷えたボトルに顔を埋めて、より多くの酸素を求めて緑の芝の上に倒れた。
「おつかれさま」
「うん…ほんと僕、おつかれ」
 ジェニファーは笑ってトビーの額をつついた後、午後に約束があるとのことで、支度をするために先に屋敷へ戻って行った。いってらっしゃいと芝生に寝転んだまま、トビーはひらひらと手を振った。
 
 Tシャツの胸が上下する。心臓が跳ねて踊っている。
 ああ、このごろちょっと怠惰にすぎた。走り込みでこんなに息が切れてしまうなんて情けない。僕はスパイダーマンなのに。
 
 眼前に広がるのは空の青み。
 今日のロスは快晴。雲が高く流れてる。

「なに、トビー。今度ミネラルウォーターのCMでもやるのかよ」
「ギャラによる」
 突然掛けられた声にトビーは仰向けのまま即座に答えた。
「ペリエとかいいらしいぞ」
「ビンのキャップは開けるのめんどい。…っていうか、今しゃべるのもめんどい」
「だってお前がゼーゼー息切らしてるの、うちまで聞こえたもんね」
「じゃあ、お前のオフが終わってトレーニング始めたら見物だな~…騒音で訴えられるかもね」
「なあ、うちにメシ食いに来いよ。母さんがお前のために特別ヘルシーメニューにしたってさ」
「なんだ、おつかいレオ君なのか」
「ちなみに俺がスーパーで材料買ってきた。さっき」
「パパラッチのおかげでまた買い食いしてるのばれて、おつかいレオ君が母さんに怒られるに3000パリスヒルトン」
「そんなネタは先週クラブで遊んで粉かけまくったからボツにされるに4500ブリトニー」
「…ばーかレオ。なにやってんだよ」
 トビーが身を起こすと、隣家の庭を隔てる高い煉瓦塀が一部分だけへこんで低くなった場所にレオが座ってトビーを見ていた。
 そこはずっと前にレオとトビーとで酔っ払って、おれがどこでもドアを作ってやる!とレオが言いながらどこからか持ってきた謎のツルハシを振るって壊した塀を、二日酔いからも冷めた後にがんばって自分達で元に戻そうとして途中で止めたDIYの名残だ。高さはちょうど膝辺りで、両手を広げて通れるくらいの広さがあって、隣家同士の往復にはちょうどいい。
 互いの彼女にも好評で、それ以後なんとなくここを共同スペースにして集まったり、どちらかにテーブル出してバーベキューしたりと使ってきた。
 煉瓦の一つにチョークでこっそりくだらない伝言を書いておいたり。パズルやクイズを書いておくのも流行った。
 一応ここは高級住宅街ビバリーヒルズで、豪邸で、庭も広いのにピーターパーカーとMJの家同士のような距離感になってしまっているとトビーが思うのはひとえにこの低い垣根のせいなのだった。
 このごろレオはここに顔を出さなかった。
 ちょっと前、レオは付き合っていたジゼルと別れた。くっついたり離れたり、いつも大げさな二人だったが、今度はほんと。もうダメ、とレオが一回だけトビーに言った。言われたのだという。
 ジェニファーとトビー、レオとジゼル、4人で楽しくやっていたから、こぼれたミルクがもう元に戻らないのは、ただ、さびしいと思うしかない。トビーにとっては。
 そしてこのごろレオは無駄に遊びまわっていて、昔の悪癖が復活かとパパラッチがだいぶうれしがっている。ゴシップはジャンクな豪華ディナーだ。メニューの名前ばかりが気をそそって量が多くて胃もたれする。
「心配するなよ」
「するもんか」
 芝生から立ち上がってトビーがズボンについた芝を払った。レオは面白がってかわざとしまりの無い笑い声を出した。
「えっへへーサンキュー。そうだよなー俺が遊ぶとお前の名前もとばっちりくうしな」
「そうだ!それ!お前とはもうストリップバー行かないから。常連だって書かれた時、ジェニファーが一日口聞いてくれなかった」
「原因は最前列でかぶりついてたお前の写真だろ。しかもチップ握り締めてるのに、なかなか渡そうとしてないし」
「ジョージが離れたくなさそうだったから」
「1ドル札くらい渡してやれって!」
「お前の手から100ドル札が簡単に飛んでいくのを見て、つらかった…」
「ポールダンス見せてくれたらベンジャミンの100人や200人、軽くお前のパンツに突っ込んでやるよ」
「…」
「本気になって考え込むなよ」
「ばーかレオ!あきれてるんだよ!お前の減量メニューにポールダンス入れちまえ!」
 チップ弾めよとレオは笑って積まれた煉瓦から立ち上がり、ポケットに手を突っ込んでない方の親指で背後の自分の家の方をくいっと指した。
「メシ」
「ん。お前んちのシャワー貸して。汗かいた」
 トビーが両手にボトルを持ちながらレオに向かって一歩踏み出した。レオがその時ふと、目線だけで空を仰いだ。
「どうかした?」
「なんか、いないか?」
「…パパラッチ?不法侵入?」
「いや、違う、なにか…」
 眉を顰めたトビーの前で、レオはきょろきょろと上向きながら周囲の気配を窺うそぶりを見せた。
 いつもの悪ふざけではないことが長年の勘でトビーにはわかったので、トビーはレオの背後に自分の背を向け、周囲に目を走らせた。
 緑の芝。木々。ジェニファーが用意したパラソルつきのチェア。庭の歩道。煉瓦塀。
「なにも変わらないように見えるよ…」
「…いや、やっぱり…」
 背中越しに喋りながら、肩の位置が自分より高いレオに気がついて、わかりきったことながらトビーは内心頭突きくらいしてやりたくなった。
「なにもいないよ…」
「気配がする…」
「これが映画だったらさ、この次の瞬間に…」
 二人のステップがじりじりと90度回転を踏んだ時、レオが伏せろと叫んで、振り向きざまにトビーの肩を引っつかんで芝の上に押し倒した。