愛の挨拶
丁寧に脱いだ靴を揃えて、そろりそろりと上がりこむ。自宅だというのに、なぜこんなに気を使わなければならないのか理解に苦しむ。こっそりと近づいていって、恋人のとなりに座り込んだ。
「えーと、ミカ、じゃない。帝人くん?」
ふあ?と顔をあげた恋人は、こちらを見て、ああ、折原さんおかえりなさい、と言った。不思議なことに、臨也さん、ではなく折原さん、と呼ばれた。これは恋人との心理的な距離を直截に表わす。余談だが、さらに遠ざかると甘楽さん、と呼ばれる。それは少しきつい。
今回は何もやっていないはずなのだけれど、と自分の最近を反芻した。これも自分にしては珍しいことであると知っている。知っているけれど、やらざるを得ないのだから仕方ない。けれど、今回は思い当たる節がなかった。
「ただいま。えっとね、きみは何で泣いてるのかな?」
言った瞬間に余計にばたばたと涙がこぼれてぎょっとする。しゃくりあげるところまでいってしまった。この少女を泣かすなんて他人がやればなかなか腹が立つ行為なのだけれど、残念ながら自分がらみ以外ではめったに、そしてほぼ一切泣かない少女なので。ああもう、と思う。柄じゃあないのだけれど、仕方ない。この少女が泣くと気になって仕方ないので、頭をなでた。
目がこぼれ落ちそうに泣いている恋人の、絶え絶えな主張を聞くに、こうである。
いざやさんが、いまはきっとしずおさんと、いけぶくろで遊んであるんだと思ったら、悲しくて、腹が立って、どうしようもなくて。
まことに複雑怪奇なことに、この恋人の中では、自分はアレと一度くらいは寝たことになっている。もしくは、過去は恋人同士などという間柄になっている。それは厳然とした事実なのだそうだ。訂正は一切聞き入れない。真偽のほどを口にするのも馬鹿らしいと思うのは、いったい自分だけなのだろうか?
それで僕が泣いている間にもいざやさんはきっとしずおさんとたのしくあそんでて、ぼくのことなんか思い出したりもしないんだと思って、そうしたら、もうどうしたらいいのかわかんなくなっちゃったので、とりあえず、すっきりしてからいろいろ考えようと思って、泣いてました。
言い終わると、ふえええん、と幼稚に泣きはじめる。自分の恋人はこういう人間だったろうかと考える。違った、と苦々しく思う。それがかなり特大の例外ではあるのだが。そう、自分は今までいろんな人間の豹変を眺めることを楽しみにしたはずである。自分の予想を超えていく人間を愛していたはずである。だというのに、恋人を前に苦々しく自問するしかない自分は何なのだろう。自分の在り方を根底から覆す可能性を持つ少女は、そんなことはどうでもいいとばかりに、ただ只管に泣いている。自分がここにいる時点で、少女の心配は杞憂であるだろうと思うのだろうけれど、そんなことは関係ないらしい。
そういえば、と思う。はじまりからしてこうだった。自分はこうして身勝手で、怒った少女は自分を超えて身勝手だった。結局、本質的なところで似通っていて、だから身勝手な自分を見ると異常なほどに恋人は怒るのだろう。
ぐすぐすと涙ぐみながら、あ、と何かしら思いついたらしい少女がすり寄ってきた。最初にこれをやってくれたら普通だし、かわいいんだけどなあとしみじみ思う。ぎゅう、と自分の背中にいっぱいいっぱいで手をまわして、抱きついてくるのかと思ったら、すんすんすんすんにおいをかいでいる。
「……………………なにをやっているのかな?」
少女はきっぱりと答えた。
「静雄さんのにおいがしないかと思って」したら私刑執行です。
大丈夫そうですね、信じてました、と晴れ晴れとした笑顔で涙をぬぐう少女を前に、折原臨也は今日もなすすべなく発言を自粛した。
心の底から思う。この恋人は、変だ。