紺碧の空 番外編
それからはもう完全に壊れてしまった自律神経を操れずにひたすら衝動のまま泣いて、泣いて、涙腺の蛇口は締まる事を知らずに涙を送り続けた。どんなに歯を食い縛っても瀕死の鳥のような嗚咽を殺せない。こんな風に泣いている自分は何て惨めなのだろうと頭の片隅に自嘲が生じ、ますます奈落の底に落ち込みかけていた頃に、今度は違う人物の声がドアの外から聞こえた。
「アルフレッドさん、本田です」
アーサーの時とは異なり、今度は丁寧にゆっくりと扉を叩く音が二回鳴って、耳に入れると此方の気分まで落ち着いてくるような穏やかな声が聞こえた。
俯いたまま鉛のように固まっていた首の筋肉が僅かに反応し、のそのそとこうべを持ち上げる。涙も哀咽もちっとも止まっていなかったけれど、半ば条件反射のようにアルフレッドの脚は藁にも縋る気持ちで扉へと向かっていった。
コン、コン、と控え目なノックが再び聞えた直後、真っ白になった頭の中でも身体が動作を覚えていたのか、指先は滞る事無く扉の鍵を開けて、ドアノブを捻っていた。
「……、」
廊下の明るい照明が常闇の室内に細い光の線を織り成す。
僅かに開いたドアの隙間から、英国では珍しい夜の闇を染み込ませたかのような黒髪を持つ親友の姿が見えた。きっと自分はとてつもなく酷い顔をしているだろうけれど、菊は小さく目を瞠っただけですぐに普段と全く変わらない穏やかな表情に戻っていった。その優しさに再び嗚咽が込みあがってくるのを感じ、思わず足の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになったのを慌てて華奢な腕が捕まえて、大丈夫ですかと背中を摩ってくれる。そのまま引き込むように彼を自分の部屋へと招き入れた。
手を伸ばせばスイッチを入れて電気を点けることが出来ただろうに、菊は自分を慮ったのか真っ暗の部屋でカーテンから漏れる僅かな月明かりを頼りにベッドまで辿り着くと、しがみ付いたままだった自分を優しくシーツの上に寝かし付けてくれた。
「どうかしたのですか?」
そんなに泣いて、と彼はジャケットのポケットからハンカチを出して涙でふやけかけている頬をやんわりと拭ってくれる。
「っ、きく……っ!」
優しいその仕草に涙腺はますます刺激され、一際大きな囀りが漏れた。ひっ、と大きくしゃくりを上げた拍子に思わず力の入った握力で、彼の着ている上等そうなジャケットを皺になる位の強さで掴んでしまったけれど、菊は何も言わずにじっと自分が口を開くのを待ってくれているようだった。
「ッ……アー、サー、に……っ」
嗚咽の合間に喋るので傷の付いたCDのように声は飛んだり裏返ったり、もし自分が傍で聞いていたら笑ってしまうのではないかと思うほど滑稽だった。しかし菊は当然の事ながら笑ったり途中で茶々を入れたりする事無く、ただ指先だけが優しく動いて髪を撫でている。その優しさに絆されるように、アルフレッドは縺れそうになる舌を苦労して操りながら続きを喋り始めた。
「アーサーに、……こども……が、……できた、って……」
「え?」
楽しい食事を終えて上機嫌の義母に手招きされ、おめでたい席だから内緒でもう一つおめでたい話を聞かせてあげましょうと耳打ちをされたのが、実家に帰っているアーサーの奥さんがどうやら懐妊したらしいという話だった。本当に子供が出来たのかを調べる為に、掛かりつけの病院で診察を受ける目的で帰省しているのだと言うのだ。アーサーにもまだ打ち明けていないビッグニュースなのよと嬉しそうに笑う義母の前で、アルフレッドは自らの頭が一瞬にして真っ白になったのを感じた。
(……アーサー、が……)
彼が女性と結婚した日から、いつかその知らせを聞く時が来るのだと、ずっと覚悟を決めていた事柄でもあった。しかしいざその一報を受け取ると、冷静になろうとする暇も無く忽ち動揺してボロボロになってしまった。
「どうしよ……俺、きっといらなくなるんだ」
アーサーに愛されていると言う実感はあったし、その気持ちは本物だと彼を信じる事に揺らぎは無い。だけどどんなに気持ちが強くても決して叶いやしないのだ。血の繋がらない弟より、自分の子供の方が可愛いに決まっている。どちらを選ぶのかは言わずもがなだと思った。
「俺……俺は、アーサーがいないと、生きていけないのに……」
それなのに、今度こそきっと捨てられる。邪魔にだけはなりたくないのに、彼の未来を考えればどう考えても自分の存在は障害にしかならない。我が子をその腕に抱いた時、自分に向けられていた筈の愛情が数パーセントでもそちらに流れてしまうと思うともう我慢が出来なかった。
本当は自分以外の誰も抱いて欲しく無いのだ。例え女性であっても、奥さんであっても、アーサーに愛されるのは自分だけで良い。他の誰にも触ってほしく無い。物分りの良い振りを続けながら、本当はこんなにも醜い嫉妬で腹の中が満ちている。
「うっ……ぅぇ……きく……」
親友の膝に額を擦り付けるようにして泣く自分に、彼はやんわりと頭を抱えてそっと髪を撫でてくれた。優しい指先に慰められても、涙は止め処無く溢れ続ける。
「大丈夫です。彼が貴方を手放す筈はありません」
常に穏やかな彼にしては珍しくきっぱりとした強い口調だった。まるで未来を予言しているかの如くに。
「大丈夫……大丈夫です」
不安と疑心暗鬼でボロボロになっている心を安心させるように、何度も何度も平気です、大丈夫だと繰り返して、彼は貴方を愛していますよと落ち着いた低い声音で囁く。すると優しい魔法に掛かるように、少しずつ哀しみの衝動が収まっていくのが不思議だった。
「今日はこのまま眠ってしまいましょうか。私が傍にいますから」
ごそごそと腕を伸ばして足元から毛布を手繰り寄せ、肩の上まですっぽりと被せてくれる。
「何だか初めてお会いした時みたいですね」
ジャケットを脱いでベッドの脇に置き、もぞもぞと隣りに潜り込んで来た菊は、そう言ってクスリと悪戯じみた笑みを漏らした。
彼の故郷の今はもう懐かしい娼館で初めて会った時も、自分はアーサーの事で悩んでべそべそ泣いていて、俺を此の場所から連れ出してくれと通りすがりの菊に懇願したのだ。見兼ねた彼が自室へと連れ行ってくれて、初対面にも拘わらず沢山話を聞き、一生懸命慰めてくれた。布団を隣り合わせてお喋りしながら一緒に眠った思い出は、きっと一生忘れる事は無いと思う。
「目が覚めたら、きっと全部うまくいきますから」
「……うん」
子供のように素直に頷いて、アルフレッドはゆっくりと眠りに落ちていった。