不謹慎なお祈り
ただいまぁ、と情けない声と共に扉が開く。そのまま疲労困憊といった足取りでソファに倒れこんだのはレオだった。
ちょこちょこと小さな獣が心配そうに顔を覗き込むと、レオはそれになごんだのか小さく微笑んで頭を撫でてやる。
先程までのハードワークとうってかわっての癒しをレオが享受していると、勢いよく扉の開く音。今にも沈没しそうな意識をどうにかかき集め、先輩のような存在の男に出迎えの言葉を投げかける。
「ザップさん、おグファ」
なんのためらいもなく人ひとりが伸びているソファの上に座り、ザップはきょろきょろと部屋を見回した。
いつもと変わらず整頓されているが、この事務所の主が見当たらない。
「おい、旦那は?」
「………」
「意識トばしてんな貧弱野郎め」
さらに体重をかけてやれば、うぎゃあと力無い悲鳴。
で?と再度問い掛けると、呻きと涙が若干入り混じっているような声が返る。
「クラウスさん たちは、べつのけんで、でる て、」
「そんなこと言ってたかー?俺聞いてねぇ」
「そりゃ、あんたがきいてなかっぅぇっ」
「そこらへんぶらついてくりゃよかったなー。暇だ」
ぐい、とザップがソファに寄り掛かったせいでレオの言葉はまた遮られた。
じゃあどっかいってこいよという言葉をそっと胸中にしまい込み、レオはどうにか腹の上に居座る長身をどかそうと試みる。無理矢理動かすことなどできるはずないのでもちろん下手にでる作戦だ。
「あの、ザップさん。僕疲れたんで寝たいんですけど…」
「もしかしてさっきのやつでか?紙すぎるなお前」
「うっ…!……と、ともかく、もうだいぶ意識も飛ぶ寸前で…」
「上司が暇だっつーのに相手もしないとかいい身分だなコラ」
「うわぁ、上司って。間違ってないはずなのにすごい嫌だその言葉」
「よぉっしレオくんもう一仕事いくかぁー」
「だから…もう疲れきっているのだと…」
ケタケタと笑うザップにレオはもう口を動かすのも億劫になり、潰されたままでも寝てしまえと元からたいして開いてなかった目を閉じる。
そこはかとなく息苦しいがどうにか眠気を捕まえ、そのおかげか腹にかかる重さがなくなったような気になり、本格的にレオの意識が沈み始めた時にふいに瞼を凄まじい勢いで開かれた。
「なっ?!」
なにが起きているのかとキョロキョロ目を動かす。よく懐いている愛らしい獣ではなくもちろん、恐怖のというかこの状況ではむしろうざったい男の犯行だ。
重さが無くなったと思ったのはザップがソファで体勢を変えたからだったらしい。うっかり襲われている女の子のような位置関係になっていては、息苦しさがなくなったと素直に喜ぶことはできそうにない。
どうでもよさそうなくせにじっくりと見てくるのは、観察でもしているつもりなのか。
「へぇ、こまけーのな」
「なにしてんすか!あと開きすぎ!開きすぎて痛い!」
「お前目ぇ細いからいつも見えてねーじゃん?ちょっと気になっててさぁー」
「じ、自分で開くんで!ザップさん痛いイタイイタタタタタ」
「これってへこんでんの?模様?どっちよ?」
「ちょ!触って確かめようとか思ってんなよ!!目だから!そこ眼球だから!」
「んだようるせぇな」
視界に近づいてきた指に嫌な予感がし、レオが抵抗するとザップは舌打ちで返した。
無理矢理瞼を開かれているせいか徐々に涙が滲んでくるのを感じ、あまりのしょーもなさに別の涙が溢れそうになる。
しゃあねぇ、と小さな呟きがレオの耳に届き、眼球に触ろうとしていた指が視界から遠ざかる。
とりあえずの危機は回避したかとレオの緊張が少しだけとけ、脱力した口元からふぅ、と息が漏れる。
そんな瞬間だ。レオは到底反応できなかった。
視界が若干陰り、理解不能な生暖かさ。なにか柔らかなもので眼球が圧迫される。
一体どんな状況なのか、レオがそれを理解したのはザップの言葉を聞いてからだった。
「まじぃ」
眉をひそめて一言。
ぽかんと開いたままだった口がわなわなと震え始め、事務所が大絶叫で埋まる。
「あ、あ、あんた!いま!な、なめっ !!」
「あーまじぃまじぃ。しかも舌じゃ結局わかんなかったし」
「ほ、んとにあんたはなにやってんすか!う、うわああなんかぞわぞわしてきたあああ!!!」
「んだよ?!お前が触んなっつったからやったんだろうが!」
「き、きもちわる!だからってなめるとか!発想がおかしい!やだもうこのひとこわいまじねぇよ!うわああああ!!」
「叫ぶなうるせぇ!」
「ああああああ っ ?!」
口元に熱、というよりも痛みが奔る。先程の感触とは比べ物にならないほどの存在感が口の中を這い回る。
せっかくザップから解放されていた目をこれでもかと見開くも、近すぎる距離を確認するだけだ。
いつのまにか触れていた鼻と鼻とが離れ、ようやくザップの顔をしっかりととらえる事が出来た。その表情は意地の悪さをこれでもかと含んでいる。
「やっと静かになったか、ガキ」
ぎしりと、いつもは気にしていなかったソファの軋む音がレオの耳に届く。
馬乗り状態から解放されたというのに、呆けた顔でザップを目で追うしかできない。
「暇だし帰るわ。お前ここで寝るんだろ?旦那に言っとけ」
なにごともなかったようなザップの声だが、悪質な笑みが貼りついたままだ。あまりの衝撃に喋ることすらできないレオが面白くてたまらないらしい。なんらかのフォローをする気もないようだ。
じゃあ、と軽く手を挙げてザップが事務所から出ていく。扉が閉まる音でようやく、レオの肩がビクリとはねた。
「・・・・・・・・・・・・え・・・・・っと・・」
いまだにオーバーヒートしている頭で状況を整理しようとするも、どうしても進まない。できるのは無意識に口元を確認しようとする手を留めることぐらいだ。
ひりひりと口が痛む。しかし問題はそこの内側の感覚だ。
「まじ、なにすんだよあのひと・・・いや、でもあれはキ・・・・とかじゃなくてむしろ噛みつかれた感じだよなうんそうきっとそうだ噛みつかれたんだぜんぜんき、すとか、じゃ、」
ごろんと体勢を変えてソファに顔を突っ伏す。いつもと違うレオの様子を心配する小さな気配を感じたが、それに応える事が出来ない。
とりあえず、クラウス達が戻る前に火照り始めた顔をなんとかしなければ、と考えるも具体的な対処法が思いつくこともなく。
変に意識が覚醒して疲労感ばかりをかかえたまま、レオはただただ事務所の主の帰還が遅れますようにと祈るばかりだった。