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罪は消えるか否か

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宍戸が勤める刑務所は、独居房だけが並ぶ施設だ。そしてその独居房は、死を待つのみの咎人を収容する為のものだった。
 宍戸は、監獄事務に従事する法務事務官、則ち看守となって五年目となる。一年目は都心の拘置所、二年目から少年院に勤務し、この刑務所には、数カ月前に配置されたばかりだった。──青二才である。
 ここに収容されている囚人はせいぜい二十余名。それに対して、看守は十人程度。看守一人に対して囚人二人の割合だ。そして宍戸の他は、この道二十年、三十年というベテラン看守ばかりだった。
 青春時代の知り合いが、今の宍戸を知れば、意外だと異口同音に言うだろう。法務事務官は法務省管轄下の国家公務員だ。宍戸自身、自分が「お役人」になろうとは、大学に入るまでは、露とも思っていなかった。平凡な企業の凡庸なサラリーマンとなり、ごく平均的な給料を得て、家庭を支えていく…そんな、漠然とした未来予想図を頭の中に描いていた。
 そんな宍戸がはじめに入学した大学を自主退学し、法科大学に入り直したきっかけは、単純ながら、深刻なものだった。…幼なじみが、人を殺したのだ。
 宍戸の知るかぎり、彼は人を殺すような人間ではなかった。だからこそその真意を知りたかった。だが罪を犯した彼と面会する事は叶わず、対話の機会に恵まれないまま、彼は人知れず裁かれた。彼が殺したのは、ひとりではなく四人。正当防衛や衝動ではなく、極めて残忍な、計画的殺戮だった。
 彼は宍戸だけではない、多くの人間にとってかけがえのないひとりだった。裁判の様子を閲覧する為に、それらの人々が詰め掛け、法廷には入り切らないほどだった。
 減刑を求める署名運動が行われている中で、彼の背中は、潔いほどに真っ直ぐだった。罪を罪と認め罰を受け入れる旨を、一度も声を荒げる事なく淡々と告げた。
 彼の心境が見えず、納得できないという気持ちに振り回された。彼が何を思ってそれを行い、その責を果たすのか、知りたかった。そうして今まで「悪」として一括りにしてきた殺人者の心に、興味を持った。善と悪、正しさと誤り、それは今まで宍戸が考えていたほど単純なものではないのだと。

 宍戸の卒業を待たず彼は逝った。

 まだ経験が浅く、わからないことは増えるばかりの日々。その中で宍戸は、盤石な人格などないと知った。たとえ今いかなる善人でも、人間は、簡単に加害者にも被害者にも転じる。
 例えば戦勝国が正義をかたり、敗戦国を悪と罵るように…。

 入り口から一番遠い独居房に、もう十年も獄中で生活しているという、初老の死刑囚がいた。口数少なく、穏やかなその男の事を、ベテランの看守達は親しみを込めて、「健さん」と呼んでいた。永く接していれば情が湧くのも自然の成り行きだが、「健さん」は、そういう囚人の中でも特別だった。看守の中には、未だに彼の無実を信じて疑わない者、彼が有罪であっても憎めないと感じている者さえいた。
 フルネームを、南健太郎という。宍戸は彼に、あの幼なじみを重ねてみていた。

「宍戸、落ち着いて聞いてくれ。健さんの刑執行の日取りが決まった。」
 仮眠室で休養を取っていると、控えめにノックをして入ってきた看守長が、苦い表情で告げた。宍戸は、飛び起きた。
「それは、いつですか!?」
 呼び出された者は、一様に暗い表情をしていた。看守長は瞑目した。
「一週間後だ。」




*




「おはようございます、健さん」
「…ああ、おはよう。」
 格子の向こうで、南は椅子に座り、脚を開いて、その間で組んだ手を力無く垂らしていた。頭を三十度下に傾け、眠っている風だったが、声をかければすぐに反応を示した。この南という男は、穏やかで、気さくで、物静かだ。
「年の離れた弟がいるんだ。宍戸さん、あなたと話しているとその弟を思い出す。最後に会ったとき、丁度あなたと同じ年頃だったから」
 南の罪状は、妻子殺しだ。両親は早くに他界し、肉親と言えばその弟が残るばかりだったが、彼は一度も面会に訪れていない。
「あいつは、顔も見たくないんだろう。仕方ないことだよ」
 三週間前に交わしたそんな会話が思い出されて、宍戸は、南と目が合うなり、泣いた。
 この刑務所へ異動して来た頃、ここに収容されている囚人達の裁判記録を、資料として読んだ。南の犯行は、最後まで詳細不明だった。彼は公判中、ただ一言、「私が、妻と息子を殺しました」と、繰り返すだけで、その他の事は、決して口を割らなかった。だが、状況証拠から、南が犯人であることは疑いなかったので、判決はスムーズに下された。
 南の件でも、恩赦を求める声が高まっていた。そして裁判官は、それを考慮し、無期懲役を言い渡す筈だった。それを知った南は、はじめて重い口を開いて訴えた。
「御遺族の哀しみも癒えぬうちに、一部の者が徒に騒ぎ立てていることは、大変心苦しく、遺憾です。御遺族の心を逆撫でし、傷つけるそのような行為は、どうか止めていただきたい。私は本来の刑を厳粛に受け止めるつもりです」

 そのコメントが代理人によって公に読み上げられた時、殺された妻の母親は泣き崩れたという。
 いま、宍戸はその母親の心境だった。

「宍戸さん…顔を上げて。私は、君にそんな風に泣いてもらえるような人間ではないよ」
 姿勢を変えず、南は宍戸をやさしく諌めた。穏やかな声が、彼が既に自らの運命を知ってしまった事を、言外に示していた。
「…俺は、幼なじみが人を殺したことがきっかけで、この仕事につきました。あいつは、健さん、あんたのように、自分の犯した罪に対して、一切弁解することはなかった。その気持ちが、俺にはわからなかった。わかりたいと思って、ここにいます。」
 鳴咽混じりに紡ぐ言葉を、南は静かに聞いていた。やがてそれが途切れると、後は呻くような声だけが響いた。周りの囚人や看守は、その悲しみを共有していた。

「私は、狡い人間でした。今もそうです。どんな事情があろうと、人の命を奪うことは、許されてはいけない。言い訳なんて、無意味だ。深い反省が罪を消すわけじゃない」

 これでやっとお前の傍に行ける。それが彼の最期の言葉だった。

 
(2007.12.13 - サイト再録)
作品名:罪は消えるか否か 作家名:_ 消