ナイトフライト
明日は付き合って一ヶ月の記念日だと笑った瞳を隠して初めて、自分が思いのほか緊張していることを知る。鼓動がうるさい。気付いた瞬間に少し浮かせた掌は、汗でじっとりと湿っていた。女々しいなと笑ってやる余裕もない。
「静雄さん?」
二周りほども違う掌を合わせるようにして試みた小さな抵抗を、無言で殺して額に顎をのせた。今顔を見られたら、間違いなくキョトンのあと、ぷ、と堪えるように小さく笑うだろう。
出会ったときはそうじゃなかった。キョトン、のあとは視線が外れて、微かに肩が揺れる。気遣いの姿勢が垣間見れた。でも恋人になってからは、そんな遠慮は、ない。
「静雄さん、どうしたんですか?」
「・・・・・なんでもねぇよ」
「じゃあ顔、」
「残念だがそれは諦めろ」
えー、という抗議の声を今度は唇で殺す。ん、と鼻に抜けた声を聞いて益々手が離せなくなった。今、顔、絶対ヤバイ。でも後ろから抱え込んでいるこの状況では、一番ヤバイのは多分恐らく、他の・・・・・だめだ、忘れろ俺。
先にシャワーを浴びた帝人の髪から微かに香るフローラルの香りに溺れながら、カレンダーから離れた指先をきゅ、と握る。
静雄さん、と繰り返される甘ったるい声には大分慣れた。何せ明日で一ヶ月。付き合って、恋人になって、一ヶ月だ。慣れはする。でも緊張は解けない。
明日どこに行きましょうか、と笑った顔に、どうすっか、と笑い返すことにも慣れた。まともに視線も合わせられなかった頃に比べれば大きな進歩だ。でも、緊張は解けない。
「静雄さん、シャワー浴びないんですか?」
「・・・・浴びる」
「じゃあその間に僕、明日行きたいところ決めておきます」
「だから顔、手、」とペチペチする腕ごと抱きしめて唸る。
言ってみようか。
でも逃げられたら。
弱気の自分を叱咤するように、目蓋を蓋っていた掌を外した。途端かち合う視線にももう、慣れた。大丈夫。意を決して口を開く。
「・・・・帝人、しってるか」
「え、デスノートですか?」
「・・・・・ちげぇよ」
「しずおさんはプリンしかたべない」
「・・・・・プリン以外も食うだろ」
「そうだったかなー?」
「帝人、」
「はい、ごめんなさい」
「・・・・・あーもう、」
決したはずの決意がコロンコロンと転がる音を聞く。やっぱり言えそうにない。
明日を思ってニヤニヤしている帝人の額にコツンとデコピンをして立ち上がる。タオルを手に振り返ると、ごゆっくり、なんて笑われた。
「・・・シャワー行って来る」
「はーいいってらっしゃーい」
再びカレンダーと、何かを調べるために手に取った携帯に帝人の意識が移ったのを確かめてリビングを出た。
パタン、と扉が閉まるのを待って、大きな溜め息を一つ。浴室へ入ってまた一つ。頭から冷水を浴びながら〆に三つ。今ならいくら幸せが逃げても構わない。逃げられない現実が既に今目の前にあるのだから、もう幸せとかどうでもいい気分だった。
ぼんやりとした頭で明日のことを思いながら、静雄にとってはそれより重要なことを言葉に乗せる。結局言えなかった。今夜は自分ひとりがきっとツライ。
浮かれすぎて帝人の頭からはすっかり抜け落ちているワードは、たった一言で静雄を浴室に蹲らせるのに十分な破壊力を持っていた。
(帝人、しってるか)
(今日は初めての、泊まり、なんだぞ)
それもある意味記念日なのになんでまるで気にしてねーんだよ・・・。
熱の篭もった体に冷水を浴びせながら悶えてそれから、長い夜への溜め息を一つついて、静雄はまた蹲るのだった。