excuse
そっと、視線を送る。目の前を歩く男はこちらを振り返る気配がなく、安堵しながらも少女は小さな胸が押し潰されるようだった。
と……少女はあることを思いついた。すぐに両の手をマントにくるみ、男に気づかれぬよう、必死に指を動かす。
かすかな感触と共に、左手が軽くなるのを感じる。目的が果たされると少女の頬には赤みがさし、しかしそれを顔に出さないよう少女は必死に眉を寄せた。
もう一度、視線を送る。目の前を歩く男は、こちらの様子に気づいた気配はない。
心臓がどくどくと脈打つ。うまくいくだろうか。気づかれないだろうか。怒られるだろうか。
口を開くが、声がうまく出ない。
しばらく唇を音もなく動かし、そして喉の奥から何とか言葉を搾り出した。
「カイ………」
かすれた声が言葉を紡ぎ終える前に、それは手の中を滑り落ちた。少女が何か思う前に、それは小さな音を立てて草に落ちる。
男はそこで初めて歩みを止め、振り返った。
静かな蒼い眸が己に、次いで足元に注がれる。少女は絶望した。男からもらった物を、男が大切にしていた物を、あろうことか落とすなんて。
男は怒るだろう。あの苛烈な感情をその眸に色づかせ、私の胸を焼き尽くすだろう。ああ、そんなつもりじゃなかったのに。男の大切な妹を、大切な竜を奪い、そして今私は、男の大切なブレスレットを落とした。凪いでいた感情は記憶と共に蘇り、そして私を憎むだろう。違うの、そんなつもりじゃなかったの。でも、本当の事を話せばどうなる? 男はきっと呆れ果て、二度と振り向いてくれなくなるだろう。それでも、死ぬ事も許されず、ただ男の傍にあり続けさせられ……私は、男に殺され続けるのだ。
それはとても、とてもとてもとても恐ろしく、少女の心は断末魔のような悲鳴をあげて疼いた。
「……ご……ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……」
言葉が、口の中で空虚に響く。ああ、これは男が最も嫌う言葉なのに。それでも口は止まらず、空しい言葉を紡ぎ続ける。
男は静かに歩み寄ってきた。さくり、さくりと、男の足元で草が悲鳴をあげている。ああ、音が、男が、だんだん近づいてくる。何をされるだろう。殴られるだろうか。いっそ殴られることで、それで男の気が済めばいいのに。でもきっと、きっと男は私を許さない。
許して。
憎まないで。
嫌わないで。
祈るように、目を固くつぶり心の中で唱える。男の影を閉じた瞼に感じ、少女は絶望した。
男はそのまましゃがみこむと、草の上のブレスレットを拾い上げた。少し土がついたな。男の“声”が少女の胸を静かに引き裂いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
汚れを払い、指で丹念に拭き取っているのがわかる。落ちただろうか。いいえ、きっと男は汚れが落ちたとしても、大切な物を汚した私を許さない。ああ、お願い。私、そんなつもりじゃなかったの。ただ、ただ。
少女は息を呑み体を強張らせた。男が己の左手首をつかんだのだ。男の手にあるものが、本来あるべき場所。今そこには何もなく、ただ男の左手が戒めのように包み込んでいる。
空虚な言葉は、もはや口に出なかった。ただ恐怖と、絶望が全身を支配し、男の一挙手一投足を見守る。だが少女の思いとは裏腹に、男はブレスレットを少女の手首につけ直すと、少女の髪に触れた。
赤い、赤い眸に飛び込んできたのは、あまりにも優しい蒼。やがて男は立ち上がり、また背を向けて歩き出す。
少女は呆然と立ち尽くしていた。ただ心臓がどくどく音を立てて脈打ち、体は強張ったままだ。
敵の気配なら一人たりとも逃さぬ男が、ブレスレットが草の上に落ちた微かな音も聞き逃さない男が、なんと鈍いことか。
まさか、ブレスレットが勝手に落ちたと思うなんて。
私が、自分で外したことに気づかないなんて。
あまりの間抜けさに全身の力が抜けると、少女の目に涙がにじんだ。胸の鼓動が苦しくて、小さく息を吐く。
「カイム」
まずい、と思った時にはもう遅かった。男は再び足を止め、こちらを振り返っている。
どうしよう、と少女は思考をめぐらした。なんでもない、なんて言ったら怒るだろうか。ただ、呼んでみただけなどと言ったら。
「………あり……がとう……」
怪しまれぬ程度に考え思いついた、この場で一番違和感のない言葉を呟く。いいえ、もしかしたら不自然だったかもしれない。怒る? 憎む? ……嫌う?
だが男は、やわらかくほほえむと、少女の頭にふれた。金の髪をかき乱すように、しかしやさしく頭を撫でると、また前を向いて歩き出す。
……ああ。
少女は身を焼くような想いだった。痛みを胸に抱きながら、男の後を追うように、遠すぎず、近づきすぎず歩き出す。
そして少女は考え続ける。男の目を己に注ぐための、口実を。