Zの遭難
姉さん、お元気ですか?
父さんや母さん、おばあちゃんによろしくお伝えください。
ぼくは今…―――無人島で遭難しています。
「Z!暗くなっている暇があったら薪を集めろ!」
「は、はい!」
少佐の叱咤で、心の手紙から我に帰り、枯れた枝を腕に抱えてZは歩いた。
もう2日を数える。
NATO情報部のエーバルバッハ少佐とその部下Z、まぎれこんだ世界一の吝嗇家・ジェイムズ君を乗せていた軍用機が、突然のトラブルでこの島に緊急着陸し、それから無線も何も使えなくなって、外部への連絡を絶ってから。
「いいか。Z。今頃は部長でも気がついて捜索の手配ぐらいしているはずだ。もう少しの辛抱だ。」
最後の一言は少佐自身にも言い聞かせているように聞こえた。
「ドケチさんは食料を分けてくれるでしょうか…。腐るまで取っておくって言ってましたけど」
「こんな場所でせっかくの食い物を腐らせてたまるか!…あいつもなんとかするだろうさ」
よりによって、伯爵とはぐれてしまったドケチさんとぼくと少佐って、なんていう組み合わせなんだろうと、Zは不運に怯えた。
少佐は機内のボックスにもぐりこんで寝ていたジェイムズ君を見つけた時、怒り心頭で飼い主の義務を怠っていると、その場にいない伯爵を罵っていた。きっと伯爵も探しに来て…そしてまた少佐と会うんだろうなとZは内心思っていた。
苦々しげな顔で少佐は右肩に集めた薪を乗せ、かろうじて空いた左手で器用にシャツのポケットからタバコを取り出そうとした。けれども、タバコがすでに切れていたことを思い出して、その手は空振りしてしまった。
Zも同じようにして、空いた左手で自分のシャツのポケットからタバコの箱を取り出した。タバコはまだ十分にあった。そのなかから1本を覗かせて、少佐の口許へ向けた。
「どうぞ」
「戻ったら倍にして返してやる」
「期待…します…」
少佐の、口元がちょっと笑ったように見えた。
この時、まだ誰にもわからなかったのだ。
その時すでに、上空では次の災難がスタンバイを決めていたことを。
吹き上がる激しい風に額髪が乱れる…。
「フッ。盟友との感動の再会に身だしなみの乱れがあっては一大事。」
英国紳士の証であるテーラードのスーツの上にオレンジ色のパラシュートを着込み、チャールズ・ロレンスは直下口の間際で鏡と櫛を取り出した。
「…ロレンス!早くしたまえ!」
「危急の時でも忘れぬダンディズム。エロイカ、それがわからない君でもあるまい」
「少佐とZ君が大変なんだよ!ジェイムズ君も一緒にいるらしいし…もういい、私が先に行く!」
「ジャンケンで順番を決めたのに破るとは卑怯な!」
「君がさっさと行かないからだろう!」
「一番乗りで盟友に会うのは盟友であると相場が決まってる!」
ふたりはその場でもみあい、そして同時に空の中へ転び出た。
薪にする枝の束を担ぎながら歩いていると、少佐が木の上を見上げた。
「うまそうな実がなってるぞ、食べるか?」
「いいですね」
しかし、その途端に少佐の眼光が鋭くなり、伏せるようにと合図が出た。
「なにか来る!」
周りに油断なく目を光らせ、少佐は警戒する。
忠実に身をかがめていたZはその時初めて、少佐の頭上に気がついた。
「少佐…!う、上ですっ…上から…!!」
振り返った少佐に2つの災難が落ちてきたのはこのあと一秒後―――。
少佐をクッションにして降りてきた英国産の2つの災難のうち、一人は都合よく意識を失っていて少佐の怒りが直接ぶつけられるのを免れ、もう一人に少佐は取引の末、任務を下した。
食料を握るジェイムズ君を懐柔すること。
近くで火を熾すために枯れた枝を選り分けながら二人の様子を聞いていたZには、たとえ伯爵がジェイムズ君の主人でも、これはちょっと難しそうに思えたのだが。
「ジェイムズ君、お願いだから…」
「そんな声出したって無駄です!」
「じゃあ、こうしよう。言い値で私が食料を買うよ」
「何言ってるんですか!あなたのものはぼくのものだからそんなの無意味です!」
「まさか少佐に買わせようというわけじゃないだろう?」
「ユーロなんて…ペニヒのみみっちさが愛おしかったのに…!」
伯爵はため息をついた。
「どうしても食料を譲りたくないというんだね」
「しおらしいふりしたって騙されません!少佐に恩を売る気でしょう」
「私の美意識に反するよ。そんな…食べ物片手に跪かせるなんて…」
「…」
どこかうっとりとした瞳で笑いかける伯爵を、ジェイムズ君は疑いの目で見つめた。こんなときはすこぶる怪しいときだった。
のびやかに伯爵が腕を上げて、小高くなった海に面した斜面を指差した。
「あの岩の上あたりがいいかな?私は威厳をもって立ち…罪の果実はバナナと林檎のどちらがいいと思う?選択の余地があるなんて、ここが絶海の孤島にしては気が利いてるね。そして私が伸べた手を少佐が…」
「おい、帰ったぞ」
「伯爵!あなたって人は~!」
「ちょうどいい。少佐、ジェイムズ君が食料を売ってくれるそうだよ」
「言っておきますが現金第一です。後払いはだめですからね」
薪をばさりと地面に下ろして、二人を一睨みした少佐は、ズボンの後ろポケットから財布を取り出した。
出てきたユーロ札とコインを見て、計理士は色めきたったが、驚いたことに寸前で手を伸ばすのを押しとどめた。
「これじゃだめです」
ぷいとそっぽを向いてしまう。
「なら何がいいのかね?無人島でインフレは起こらんぞ」
その穏やかな忠告の下に、こみ上げる苛立たしさを隠しているのを感じて、一瞬はくじけそうな様子を見せたが、それでも彼は主張した。
「ぼくが欲しいのはペニヒ。それも1969年のハンブルク鋳造所製でJの刻印のつく 2ペニヒ鋳貨」
「…なんだ。その局地的な注文は!?」
「ああ、コレクターものなのか」
伯爵がなるほどと手を打った。
ユーロへの貨幣転換に備え、家で「眠っている鋳貨」を回収すると称して大々的キャンペーンが行われていたが、チェックもしないで銀行にもって行くと大損をすることもあり得た。
ペニヒ鋳貨から 5マルク鋳貨に至るまで多数の鋳貨が高値で取引されているのだ。コレクターの間で。
私は興味がないけれどね。と伯爵は言い添えた。
「でも2ペニヒにして3100マルクの値がつくんです!小銭を愛するぼくとしてはこの手に収めたい!」
「あんなにたくさん持っている君なのに、その硬貨は1枚もないとしたら、ここで要求するなんて無理難題にもほどがあるよ、ジェイムズ君」
伯爵はさすがにちょっと怒ったそぶりを見せた。眉間をしかめて見せただけだったが、ジェイムズ君はそれでも「だってだって」と子供もみたいに泣き出した。
Zは、まさかただの2ペニヒにそんな値がつくとは思わなかったので、感心するやら呆れるやらという気持ちになっていた。
「じゃあ売ってください」
財布の中のカードいれの方にそっとしまっておいた硬貨を取り出して、Zは目を丸くする皆の前に差し出した。