波紋
この山には化物が出るのだと麓で聞ゐた。狐か狸か天狗かも分からぬ、唯得体の知れぬ生き物が旅人を化かすのだと。言の葉を奏でて人を惑わし煙に巻く、忌むべき妖。その姿態はけれど、魂を抜かれる程に美しゐといふ。
暗闇の中でざわり、と木々が凪ゐだ。
山には神が宿る。また、妖が宿る。逢魔が時はその名の通りに、魔に逢う時刻といふ意を持つ。日が暮れてから山道を歩くのは、だからこの時代、余り褒められたものではなかつた。
それを気にも止めず山を跨ごうとしてゐた男は、けして目の前に現れた『それ』に悲鳴を上げて逃げ惑うたりはせぬ。己の知識で網羅できぬものに対する恐怖心など持つておらぬのだ。妖といふのは人が理解の及ばぬ事象に名を与ゑたものであると、男は本能的に知つてゐた。
「我を見ても逃げぬのじゃな?ほぅ、これは珍しいことだのぅ」
朱を塗ったやうに紅ゐ唇を歪め、『それ』は厭らしく笑つた。艶やかな黒髪と白ゐ肌が対照的で、闇の中を紅く光る瞳はこちらを強く射抜く。その人と思えぬ異様な美しさは、童が喜んで丁寧に遊ぶ高値の人形に似てゐた。着てゐる着物も、何処かそれに似て淡麗だ。
木々に囲まれた道には生温ゐ空気が立ち込めてゐる。しんと静謐な夜を穢すかのやうな異形。葉の群が掠れる音がした。景色にそぐわぬやうでゐて闇にも溶け込むやうな強烈な同化が煩わしゐ。
あゝ、此奴は人だと男は悟つた。
「…手前は人だろう」
低く確認すれば、『それ』は僅かに目を見開ゐてから表情を消した。ざわざわと山が鳴く。暗闇の中で無表情に黙つてゐると益々人形のやうだ。暫くして微かに笑みを浮かべて『それ』は言つた。
「さすれば何ぞ不都合でもお在りか」
此奴が人だと解つた者は今までゐなかつたのだらうか。男は再び訊ゐた。
「名は何と言う」
うふふ、と紅ゐ唇が笑う。眩惑的なまでの美しさ。又ざわりと山が鳴く。
「名はない。妖でも化け物でも、其の好きなように呼ぶが善いわ」
名は最も簡単で強力な呪だ。人を形作り固定し、守り縛るものだ。呪術師などはそれ故他者に己が名を知られることを嫌ふ。逸れならばと男は思ふ。俺は此奴が。
「ならば手前は―――臨む者だ。これから手前の名は、臨也」
は、と今度こそ『それ』は、否、臨也と名付けられた美しい青年は瞠目した。寸の間くらりと躰が揺れて、静止する。じつとこちらを見上げてきた目に宿る色の意を男は知らぬ。
「俺が名付けたから、今から手前は俺のものだ。
臨也。手前、俺と一緒に来い」
暗い山は、黙つてしんと何かを待つてゐる。引き結ばれてゐた唇が綻んだ。睦言でも囁くやうな甘ゐ声で彼は問ふ。
「何故じゃ?何故我を連れてゆく?」
理由など何も無かつた。強いて言ゑば唯一つ。心のままに男は言ふ。
「手前が欲しいからだ」
その応ゑに、臨也は泣きそふな顔であどけなく笑つた。此の男は何も知らぬ。さう知りながらも言の葉は零れ落ちた。風にも消されぬ心の欠片。
其を待っておったのじゃ。
暗い暗い、山はもう鳴かぬ。