Camellia
いくら人並み外れていても、嗅覚は人並みだと思っていた。思い込みたかった。今までは嗅覚においては何も不自由しなかったからだ。飯時になれば人並みに旨そうな匂いにひかれるし、使い慣れた柔軟剤の匂いのするタオルケットに包まれれば眠たくなった。全然おかしいとこなんてない。人並みだろうが。
何だって今になってこんなにあの匂いにだけ、ジリジリと胸が焼けて痛むのか。
俺は馬鹿だから分からない。分からないほうがいい。
原因が判明してしまったら、きっと身体がいうことを聞かない。
Camellia
「あ…」
いつものようにトムさんの後ろについて歩いていた時だった。
ふわりと甘い匂いがした。
真っ黒の髪を跳ねさせて高いヒールを履いた女が走っていった直後のことだ。
待ち合わせに遅れたらしいその女は、拗ねたような顔をしてひらひらと手を振る男を宥めていた。
「え、ああ…知り合いスか」
「うんや、全然知らねえけど。ちょっとなぁ」
ちょっと、何スか。
詮索はしない。俺ごとき中学時代とここ数年しかトムさんのことを知らない奴が、何でも話してほしいだなんて、鬱陶しいに違いない。そばにいたいなら余計な詮索はしない。トムさんが俺にそうしてくれるように、黙ってやり過ごす。
本当はそうであってほしくない想像ばかりが頭を過ぎって頭痛すらする。俺が考えているようなことはないと否定してほしくて仕方ないのに。
「…ああ、これあれッスね。あの、横断歩道歩いてくるCMの」
「お前よく覚えてるなー、そうそうあのシャンプーな」
あのシャンプーをトムさんは使わない。自分も使っていない。トムさんがいったい誰の匂いを思い浮かべているのか分からなかったが、視線の先に自分がいないことは痛いほど分かった。
彼女が去った後も、今さっき嗅いだ甘い匂いはいつまでも鼻に残っている。湿気を含んだ空気の匂いより、アスファルトが焼ける匂いより、人混みの汗の匂いより何よりも鮮明だった。
トムさんが覚えている匂いの主。
浅からず関係しているひと。
「うわー…静雄、髪パサパサになってんなあ。夏場は日に焼けるから余計にか?」
沈黙があったと思えば、トムさんの手がくしゃりと髪の毛を絡めて頭を撫でた。
気持ちがいい。これだけで嫉妬さえ一瞬忘れてしまうほどに心臓が跳ねる。
それでももっと触って欲しいと思うところで手は離れていく。
お預けがあるからもっともっと夢中になる。
欲望には限度がない。
「そーかもしんねえス。最近髪がキシキシ言うんスよ…」
「…あのシャンプー使えばマシになるかもなあ。 ほらCMでゆってんべ?」
あ
ああ
「そっスね。髪、強くなるかもしんねえし…」
そこからの話は覚えていない。
近くでその匂いがすることでトムさんが心地よくなるなら、なんてことはとても考えられなかった。
自分が自分としてそばにいられたらそれでよかったのに。
誰かの代わり。貴方のとある記憶の代わり。
貴方が染めてみろと言った髪は、それからうまく染まらない。
-完-