それはある朝の出来事
バカだバカだアホだっていつも言われるけれど、
俺だって皆が思っているよりもちゃんと頭使って生きているよ。
「いってきまぁす」
そうやって家から出れば、眠たい頭でも一日が始まるということがわかった。
俺の家はなんてことはない住宅街の中にある、なんてことはないフツーの家だ。
だけど俺が出発する時間の街は、まるでゴーストタウンのように静かだった。
桐青高校の朝練は信じられないくらい早い。これが辛くて挫折していく部員も少なくない。
俺は一向に慣れない早起きと戦いながら、今日も静かな住宅街を行く。
自転車を乗りこなし、すいすいと冷えた朝の空気を身に纏う。
吐く息は、もう白かった。もう秋もすっかり深まっていて、冬の気配を感じる。
風を切って走る自転車は、朝寝坊の心強い味方だが、寒くなってからは憎らしいほど冷たい存在だ。
スズメが朝から元気に鳴いている道で、犬の散歩をしている人とすれ違う。
すれ違いざまにおはようございます!と挨拶すれば、飼い主よりも犬に返事をされた。
子犬のような小型犬は俺を見るなり朝から元気に吠え出した。
飼い主さんは苦笑いをしてリードを引っ張り、おはよう、と小さく挨拶した。
結局住宅街では犬とその飼い主さんにしか会わなかった。
それでも街中に出れば人並みも増えてきて、世界はどんどんと目覚めていることに気付く。
俺はまだはっきりとしない意識の中で、世界から置いていかれないように必死で自転車をこいだ。
ふと赤信号に行く手を阻まれる。面倒だが交通のルールは守らねばならないので停止する。
自転車に跨ったまま、俺はすっかり冷え切った指先に息をかけた。
周りを見渡してみれば、自分と同じように信号が変わるのを待っている人たちが集まっていた。
腕時計を見つめて眉間に皺を寄せているスーツ姿の男性、
隣の女の子と先生のグチばかり言っているセーラー服の女の子、
物凄いスピードで携帯をいじっているおしゃれなお姉さん、
イヤホンから聞いたこともない洋楽が漏れまくっている大学生っぽいお兄さん。
世の中には色んな人が居る。もちろんまだ家の中に居て、眠っている人だって居る。
信号が青に変わると、人々は一緒に前へと動き出す。俺も慌ててペダルに足をかける。
すると俺の目は、目ざとくあるモノを発見した。
横断歩道の向こう側、赤信号で阻まれていた向こうに、見慣れた人の後姿。
俺の目は特別良い方でも悪い方でもない。だけどこの人だけは見間違えることは無い。
「準サン!」
黒髪の彼は俺の元気な声にゆっくりと振り返る。耳と鼻がちょっとだけ赤い。
俺はすぐに彼に追いついて自転車から降りた。徒歩の準サンのスピードに合わせて自転車を押す。
俺は準サンに会えたことで、先ほどまでのぼんやりとした眠たい脳内が嘘のように晴れた気がした。
だけど対称的に準サンはまだ眠そうな目を擦っていて、寒そうにマフラーに顔をうずめている。
「おまえ・・・朝から元気だなァ」
「えー、準サンなんか年寄りみたい」
「あぁ?お前がガキなんだろ」
強い風が通り抜ける。その冷たさに、準サンはさっきよりももっと身をすくませた。
嫌そうに眉間に皺を寄せてポケットに手を突っ込んで悪態をつく彼は、何だか可愛い。
俺は思わずへにゃら、と緩みまくっただらしない顔をしてしまう。
彼と一緒に登校しているという喜びだけで、すでに緩みまくっているというのに。
そんな俺を見て準サンは益々へんな顔をしていたが、どうにも治る気配はしなかった。
「何だ、お前チャリだったのか」
「そうだよ、っていうか今気付いたの?」
どれほど俺のほうに目を向けていなかったのかがわかる発言である。
俺は彼と出会ってから自転車を捨ててきたわけではなく、ちゃんとそれを押して歩いていたのだ。
さすがにちょっと落ち込むと、準サンはそんな俺はどうでもいいように自転車を見つめている。
「お前のチャリってそんなんだったっけ?」
「あー・・・パンクしたまんま忘れててさァ。母さんの借りてきた」
「うーわー、お前似合うなぁそういうの」
前には便利なカゴつき、後ろには荷台まで着いちゃっている母親の自転車。
しかも色は見事な赤である。ところどころにサビなんかも目立つ。
そんな自転車を押している俺を見て、準サンは軽く笑いかけている。
朝っぱらから笑いのツボに入られても困るが、必死に笑いを抑えられても困る。
明らかに抑えきれずに笑っているからだ。本当に失礼な人!
「ちょっとォ、それ笑うとこォ?」
「お前あれだよ、日本一ママチャリが似合う高校生かもしんねぇ!」
準サンは言い終えて自分で笑っている。全然面白くない俺はそっぽを向いた。
明日は絶対自分の自転車のタイヤに空気を入れて登校しようと心に誓った。
準サンは軽くむせながら笑っている。ひぃひぃ苦しそうにおなかを抱えていた。
でも俺はやっぱり単純だから、そうやって楽しそうに笑っている準サンを見るのも決して嫌いではなくて。
口では怒っているように装ったけれど、涙目になるまで笑った彼を見て内心落ち着かなかった。
そんな自分が情けないとは思うものの、これもそう簡単に直せるものではないので早々に諦める。
一通り笑い終わると、準サンは思いついたように口を開いた。
「ていうかそれ、荷台ついてんだな」
「あぁうん、そーみたいだね」
「ふうん、じゃ乗せろよ」
「え!?」
そういうと彼は自分のカバンを前にあるカゴにさっさと入れて、自転車の後ろについた。
荷台の様子を軽く見てから、彼の中でオッケーが出たのか早くしろよ、と促される。
でも俺は自転車を押したままの状態で固まってしまった。
「あ、危なくないの?」
「大丈夫じゃね?怒られたら降りればいいし」
「えぇー・・・」
「何だよ、お前が安全運転すればいいだけの話だろ?」
はーやーくー、と駄々をこねる子どもみたいに急かされて、俺は諦めて自転車に乗った。
いつもよりちょっとだけスピードを落として走ると、後ろから楽しそうな声が聞こえる。
背中に感じる温もりと、お腹の前で結ばれた手が、なんだか嘘のようだった。
自然とスピードが上がっていったが、我が高の大事な後ろのエースは喜ぶばっかりだった。
これって一応未来の捕手としてまずいことしちゃってない?投手もなんかその自覚なし??
だけど俺は止めることができなかった。自転車はこの町を必死で走っていく。
色んな人とすれ違った。それは見たことも無い人ばかりで、俺の世界はまだまだ狭い。
この世の中には、俺の知らないたくさんの人間が居る。
だから時々すごく思うんだ。この世界で君と出会えたことは本当にすごいことなんだって。
俺なんかのちっぽけな存在じゃ、もしかしたら埋もれてしまっていたかもしれない。
数え切れない人間たちの中で俺たちは出会えたんだよ。
俺はこの出会いを、何よりも大切にしたい。
どんな人混みに紛れても、君を見つける自信はもうついた。
そんなことを、考えながら俺は生きている。
「お前のチャリがママチャリでよかったー」
俺も自転車パンクしていてよかった。三段階切り替えなんてなくてもいい。
後ろから聞こえる声に耳を傾けながら、俺は必死に自転車をこいだ。
俺だって皆が思っているよりもちゃんと頭使って生きているよ。
「いってきまぁす」
そうやって家から出れば、眠たい頭でも一日が始まるということがわかった。
俺の家はなんてことはない住宅街の中にある、なんてことはないフツーの家だ。
だけど俺が出発する時間の街は、まるでゴーストタウンのように静かだった。
桐青高校の朝練は信じられないくらい早い。これが辛くて挫折していく部員も少なくない。
俺は一向に慣れない早起きと戦いながら、今日も静かな住宅街を行く。
自転車を乗りこなし、すいすいと冷えた朝の空気を身に纏う。
吐く息は、もう白かった。もう秋もすっかり深まっていて、冬の気配を感じる。
風を切って走る自転車は、朝寝坊の心強い味方だが、寒くなってからは憎らしいほど冷たい存在だ。
スズメが朝から元気に鳴いている道で、犬の散歩をしている人とすれ違う。
すれ違いざまにおはようございます!と挨拶すれば、飼い主よりも犬に返事をされた。
子犬のような小型犬は俺を見るなり朝から元気に吠え出した。
飼い主さんは苦笑いをしてリードを引っ張り、おはよう、と小さく挨拶した。
結局住宅街では犬とその飼い主さんにしか会わなかった。
それでも街中に出れば人並みも増えてきて、世界はどんどんと目覚めていることに気付く。
俺はまだはっきりとしない意識の中で、世界から置いていかれないように必死で自転車をこいだ。
ふと赤信号に行く手を阻まれる。面倒だが交通のルールは守らねばならないので停止する。
自転車に跨ったまま、俺はすっかり冷え切った指先に息をかけた。
周りを見渡してみれば、自分と同じように信号が変わるのを待っている人たちが集まっていた。
腕時計を見つめて眉間に皺を寄せているスーツ姿の男性、
隣の女の子と先生のグチばかり言っているセーラー服の女の子、
物凄いスピードで携帯をいじっているおしゃれなお姉さん、
イヤホンから聞いたこともない洋楽が漏れまくっている大学生っぽいお兄さん。
世の中には色んな人が居る。もちろんまだ家の中に居て、眠っている人だって居る。
信号が青に変わると、人々は一緒に前へと動き出す。俺も慌ててペダルに足をかける。
すると俺の目は、目ざとくあるモノを発見した。
横断歩道の向こう側、赤信号で阻まれていた向こうに、見慣れた人の後姿。
俺の目は特別良い方でも悪い方でもない。だけどこの人だけは見間違えることは無い。
「準サン!」
黒髪の彼は俺の元気な声にゆっくりと振り返る。耳と鼻がちょっとだけ赤い。
俺はすぐに彼に追いついて自転車から降りた。徒歩の準サンのスピードに合わせて自転車を押す。
俺は準サンに会えたことで、先ほどまでのぼんやりとした眠たい脳内が嘘のように晴れた気がした。
だけど対称的に準サンはまだ眠そうな目を擦っていて、寒そうにマフラーに顔をうずめている。
「おまえ・・・朝から元気だなァ」
「えー、準サンなんか年寄りみたい」
「あぁ?お前がガキなんだろ」
強い風が通り抜ける。その冷たさに、準サンはさっきよりももっと身をすくませた。
嫌そうに眉間に皺を寄せてポケットに手を突っ込んで悪態をつく彼は、何だか可愛い。
俺は思わずへにゃら、と緩みまくっただらしない顔をしてしまう。
彼と一緒に登校しているという喜びだけで、すでに緩みまくっているというのに。
そんな俺を見て準サンは益々へんな顔をしていたが、どうにも治る気配はしなかった。
「何だ、お前チャリだったのか」
「そうだよ、っていうか今気付いたの?」
どれほど俺のほうに目を向けていなかったのかがわかる発言である。
俺は彼と出会ってから自転車を捨ててきたわけではなく、ちゃんとそれを押して歩いていたのだ。
さすがにちょっと落ち込むと、準サンはそんな俺はどうでもいいように自転車を見つめている。
「お前のチャリってそんなんだったっけ?」
「あー・・・パンクしたまんま忘れててさァ。母さんの借りてきた」
「うーわー、お前似合うなぁそういうの」
前には便利なカゴつき、後ろには荷台まで着いちゃっている母親の自転車。
しかも色は見事な赤である。ところどころにサビなんかも目立つ。
そんな自転車を押している俺を見て、準サンは軽く笑いかけている。
朝っぱらから笑いのツボに入られても困るが、必死に笑いを抑えられても困る。
明らかに抑えきれずに笑っているからだ。本当に失礼な人!
「ちょっとォ、それ笑うとこォ?」
「お前あれだよ、日本一ママチャリが似合う高校生かもしんねぇ!」
準サンは言い終えて自分で笑っている。全然面白くない俺はそっぽを向いた。
明日は絶対自分の自転車のタイヤに空気を入れて登校しようと心に誓った。
準サンは軽くむせながら笑っている。ひぃひぃ苦しそうにおなかを抱えていた。
でも俺はやっぱり単純だから、そうやって楽しそうに笑っている準サンを見るのも決して嫌いではなくて。
口では怒っているように装ったけれど、涙目になるまで笑った彼を見て内心落ち着かなかった。
そんな自分が情けないとは思うものの、これもそう簡単に直せるものではないので早々に諦める。
一通り笑い終わると、準サンは思いついたように口を開いた。
「ていうかそれ、荷台ついてんだな」
「あぁうん、そーみたいだね」
「ふうん、じゃ乗せろよ」
「え!?」
そういうと彼は自分のカバンを前にあるカゴにさっさと入れて、自転車の後ろについた。
荷台の様子を軽く見てから、彼の中でオッケーが出たのか早くしろよ、と促される。
でも俺は自転車を押したままの状態で固まってしまった。
「あ、危なくないの?」
「大丈夫じゃね?怒られたら降りればいいし」
「えぇー・・・」
「何だよ、お前が安全運転すればいいだけの話だろ?」
はーやーくー、と駄々をこねる子どもみたいに急かされて、俺は諦めて自転車に乗った。
いつもよりちょっとだけスピードを落として走ると、後ろから楽しそうな声が聞こえる。
背中に感じる温もりと、お腹の前で結ばれた手が、なんだか嘘のようだった。
自然とスピードが上がっていったが、我が高の大事な後ろのエースは喜ぶばっかりだった。
これって一応未来の捕手としてまずいことしちゃってない?投手もなんかその自覚なし??
だけど俺は止めることができなかった。自転車はこの町を必死で走っていく。
色んな人とすれ違った。それは見たことも無い人ばかりで、俺の世界はまだまだ狭い。
この世の中には、俺の知らないたくさんの人間が居る。
だから時々すごく思うんだ。この世界で君と出会えたことは本当にすごいことなんだって。
俺なんかのちっぽけな存在じゃ、もしかしたら埋もれてしまっていたかもしれない。
数え切れない人間たちの中で俺たちは出会えたんだよ。
俺はこの出会いを、何よりも大切にしたい。
どんな人混みに紛れても、君を見つける自信はもうついた。
そんなことを、考えながら俺は生きている。
「お前のチャリがママチャリでよかったー」
俺も自転車パンクしていてよかった。三段階切り替えなんてなくてもいい。
後ろから聞こえる声に耳を傾けながら、俺は必死に自転車をこいだ。
作品名:それはある朝の出来事 作家名:しつ