祈りの温度
そんな風に思考回路を片っ端から混濁させる七月中旬のぐじぐじと蒸し暑い夏の始まりの中で、俺とひょっとしたらどこかの誰かに見つめられながら、真陸貴宏はグラウンドの隅の辺りで突然ぶっ倒れた。
それは何かにつまずいて転んだなどという生易しい転倒では決してなく、あまりに熱い陽の光に眩暈を起こしたなどという可愛らしい転倒でもなく、悪意以外の何者でもない感情を持った太陽と地球の大気とが手を組んで真陸を狙い、無理矢理地面に叩きつけたかのような暴力的な倒れ方だった。
心臓が跳ね上がる。
俺はゆっくりと前方に視線を戻し数字や記号の書かれた黒板を通り越して時計に目をやった。授業時間はあと三十分ほど残っている。深呼吸。小さな騒ぎになっているであろう校庭を俺は見ない。ぶっ倒れたまま青空に晒される真陸を俺は見ない。目を凝らして不要なものまで見つけてしまうことを恐れて俺は何も見ない。焦るな決まったわけじゃないと唱えながら俺はバクバクと跳ね回る心臓を押さえつけることに集中して窓の外を見ない。
真陸のことを考えながら俺は真陸から目を逸らす。
時計の針があっけなく進んで俺のノートのページは進まないままチャイムが鳴り終わったけれどやっぱり俺の心臓と直感はバクバクバクバク鳴り続けていて、それ以上放っておくと爆発して死んでしまいそうだったから俺は立ち上がって保健室へ向かう。階段と廊下の向こうにある白い扉からはちょうど保険医が出てくるところだった。
「先生、真陸貴宏きてます?」「ああ、奥のベッドで寝てるわー、何や疲れとったみたい。朝も食べてへんかったらしいから、お昼食べてちょっと休んだらようなると思うわ」「アホやなあ」アホはこの保険医だ。「あいつ根詰めて勉強しすぎなんです。飯はちゃんと食えていっつも言うてんのに」「ほんだらあんたちゃんとお昼食わしたってな。私ちょっと出かけるで中入ったら鍵閉めといて」「はーい」言われなくても鍵は閉める。
カーテンが閉まったベッドは奥の一つだけで、俺は迷わず歩み寄って躊躇なくその厚い布を引く。白い布団の中で眠っている真陸はジャージを脱いで制服シャツに着替えていたけれど、やはりそれは袖の長い冬服だった。俺は祈る。どうかその白い服の下に浮かぶ傷跡や火傷の跡の上に、新しい痛みが広がっていませんように。真陸の肌の上に並んだ消えることのない暴力の証拠が、小学生の真陸を蝕んだ悲しい虐待の証拠が、再びこいつの身体に刻まれていませんように。
けれどそうやって祈るのが遅すぎたことを俺は知っている。律儀に止められたシャツのボタンを一つずつ外しながら、あれこいつ痩せた?と思ってどうして気付かなかったんだろう?と思って、そうして五年以上経った今もまだ残る古い暴力の痕跡の上に新しく赤黒い痣が広がっているのを確認しああやっぱりなあと思って俺は悔む。
目を醒ました真陸はシャツが肌蹴ているのなんて気にしない殊勝な態度で「なんじゃ白碑、見舞いか。悪いな」と言って笑ったが、ちょっとさすがに笑えなくて少し困った俺は自分でもよくわからない言葉を口走る。「貴宏、おめえ受験勉強はかどってる?」。途端に真陸はどうして良いかわからない迷子の子供みたいな表情になって、何か言おうと開いた口を結局閉じて俯いてしまった。