水鏡
墨を溶かしたような闇色の中、砂金の如く星の煌めきがゆるゆると夜闇に熔け出している。
新月であった。
いつしか身を裂くような冷気は鳴りを潜め、華々しく桜も散り、もう直に初夏にもなろうかという時分。
源博雅朝臣は安倍邸の濡縁にてほろほろと酒を飲んでいた。
「月のない夜というのもなかなか趣があるものだなぁ」
何ものにも邪魔されず、自然に輝く星々をうっとりと眺めながら博雅が言う。
その隣、口元に有るか無いかの笑みを含み、ゆるりと酒を嗜んでいるのは安倍晴明である。
白色の狩衣を涼しげにふわりと身に纏い、博雅と共に満天の空を見るともなしに見ている。
「聞けばあれらの星は太陽と同じく、己で輝いているというではないか」
「己の力で輝けぬのは月と明けの明星、宵の明星くらいぞ」
「まことか!?」
「ああ。それにあの星々の光はな、太古の昔にその星から放たれた光が今になってここへ届いているのだ。幾星霜もの時を経てな」
「なんと…」
感嘆したように呟くと、博雅はまるで眩しいものでも見るように目を細め、今も瞬く星達を見上げた。
「そうと聞けば、おれは益々あれらが愛しく思えて仕方ないよ」
果てない時を越えて辿り着いた星々の命の煌めきを、一瞬たりとも見逃せぬとでも云うように。
「……そうだ博雅。面白いものを見せてやろう」
「面白いもの?」
博雅の注意が削がれ、視線が晴明を向く。
蜜虫に命じて持って来させたのは横に七寸、縦に五寸程の大きさで楕円形をした、青銅製の水盆であった。
淵には一目でこの国のものではないと知れる優美な彫刻が施されている。
「これは?」
「大陸は唐の時代に、ある遣唐使が持ち帰ったとされる水盆さ。見ておれ」
傍に置かれた水指しをその白い指で取り、盆の半分程度まで水を注ぐ。
「然るべき所で清めた水で満たせば、即ち水鏡となる」
「ほぅ…」
「覗いてみるか博雅。水鏡はな、時に己の過去、又は未来を映し出す…」
「…むぅ」
「場合によっては他人のそれを見ることもあろうよ」
興味津々いった風体の博雅の様子を見、晴明は愉し気に口端を吊り上げる。
「み、未来が見えてしまった時、おれはどうすれば良いのだ」
「さぁて、それは博雅次第であろうよ。…覗くか否か、そろそろ肚を決めたらどうだ?」
「う、うむ……」
恐々、水盆の底を覗き込む。澄んだ水は絶えずその形を変え、ゆうらりゆうらりと盆の中で揺れているのみだ。
「…」
「…」
「晴明」
「なんだ」
「何も見えぬではないか」
「それは博雅が良い漢だということさ」
「なっ…!!」
ばっと顔を上げれば晴明が、堪え切れずといったように袖で口元を抑えながらくっくっと笑っている。
「またおれをからかったな晴明!」
「からかってなどおらぬ」
「いいやからかった。先程からずっと笑っておるではないか」
「そうか?」
「そうだ」
「それは済まん」
悪びれた様子もなく謝罪する晴明を見、博雅は知れず溜め息を付いた。
「…もう良い」
「ふふん」
「晴明。…お前はこれで何か見えるのか」
笑いを納めた晴明は一度博雅を見ると、ふいと視線を庭へと向けた。
「見えると言えば見える。しかし、見えぬと言えば見えぬ」
「…訳が判らぬ」
「判らなくて良いさ、そこが博雅の良い所だからな」
「…馬鹿にされた気分だ」
「拗ねるなよ博雅」
「拗ねておらん」
博雅が帰った後、晴明は腕を立てて横になりながらも手酌で土器(かわらけ)に酒を注ぎ、飲んでいた。
視線は水盆の中の水に向けられている。
「やはり、な…」
ぽつり、呟くとゆっくりと身を起こした。
晴明には見えていた。
水盆に映るのは二人の老齢の男。
一人は部屋の中で床に臥せ、もう一人は近くの柱に背をもたせて座り、庭の桜を眺めている。
座っている方の老人は何かと臥せている男に話かけているようだが、それに言葉が返されることはない。
永遠に。
「お前もおれを置いていくかよ、博雅…」
独り、言葉は月の無い夜に溶けていった…