記憶は四方からほどけていく
一日毎に大なり小なり何かを失くしていくのだという。
傷のついたディスクみたいに、そこだけが抜け落ちて飛んでしまうと。 水溶性の物質が少しずつ水の分子と結び付いていくのにもそれは似ている。それで水が白濁するわけでもなく無色透明なまま、見た目には何の変化も無い。だが浸された物質の方は目に見えて崩れていく。いつかは溶けきって、完全に消えてしまう。まるで最初からなかったみたいに。
厄介なのは、その瞬間には何を失ったのか当人はもちろん周囲にもわからないことだった。
だから気付くのが遅れてしまった。それは誰のせいでもなかった。
おかしい、と思い始めたのは一ヶ月前だった。OBの先輩を駅前で見かけたという話を錦織から聞いて、その先輩がまだいた頃の事を思いだし、そういえばあんなことがあったと語り合っていた俺達に、千石が後ろから不思議そうに言ったのだ。
「誰の話？」
千石は、俺達よりその先輩の事をよくわかっている筈だった。その人はシングルスプレイヤーで、去年まで千石の唯一の対等な練習相手だったのだから。
「何いってるの、千石」
冗談だと思って笑いながら、新渡米が横から口を出した。俺は何も言えなかった。千石の言葉には嘘がなかったから。錦織も同じように感じたらしい。その表情には困惑と憂いの色が浮かんでいた。ただお互いにそれを口にするのは躊躇われた。
本人が拒もうと、俺達は引きずってでも病院へ連れて行けばよかったのかもしれない。多分南ならそうしただろう。でも南はずっと気付かないままで、俺達も南には言い出せなかった。
そうしている間にも千石の頭の中から少しずつ存在が消えていった。
「一日ごとに、知らないアドレスが増えていくんだよ。もう携帯見るのも怖くて」
段々と奪われていく記憶に無自覚なまま千石は、その事実がもたらす結果に怯えていた。そうじゃない、お前が忘れているんだと、指摘した事もある。
「君の言ってることが本当だとしても」
千石は複雑な表情で呟いた。
「俺の感じ方は同じだろ？」
忘れられることと忘れてしまうこと、どちらがつらいのだろう。俺には遂にわからなかった。
千石の記憶から南やチームメイトが消えて、やがて家族さえわからなくなっても、なお俺のことだけははっきり覚えていたから。
家族を忘れてしまう前に、何度も医者に診てもらった。だけどそのたびに千石は落ち込んで帰ってきた。
「やっぱり原因不明だって」
たとえ覚えていなくても、千石は千石のままだ。その性格なら、また新たな人間関係を築けるはずだ。そう思うほどことは簡単ではなかった。千石は一度忘れた人間はもう他人としか思えなくなっていたし、周りは思い出してほしいと望むばかりに、千石に余計なストレスを与えた。
いつか掲示板に千石が貼り付けた手書きのポスターの文句を思い出すと、眼が潤み出すのを止められなかった。
またいつか忘れてしまうのだとしたら新しい誰かに出逢うことすら怖いのだと千石は言う。俺は自分だけがまだ千石の中に存在しうる罪悪感を抱えながら、忘れられてしまうことに怯えている。
その時、千石は本当に独りになってしまうから。
（07.12.13 - サイト再録）
作品名：記憶は四方からほどけていく 作家名：_ 消