銀杏並木、君とダンス
頬を赤くしながらばたばたと教室移動に急ぐ生徒たちの間をすり抜けながら――もっとも学舎が有する敷地面積に比例して歩道の広さなど言うまでもないのだが――東国宏は深く息を吸い、青く抜ける空を見上げて吐息を零した。
白く濁った水蒸気が天に還る。
彼はこの学び舎そのものであり、またここに澱み溜まる空気そのものでもあった。そこに在って、当然のもの。
長い長い年月をここに通う人々のように重ねながら、その実国宏と彼らの意識はあまり交わることをしない。
並木道の終わりの角で、ゆらりと大樹に身を預けていた人影が背を離す。国宏を認めてゆっくりと手を振る。
深緑のモッズコートから伸びた白いてのひら。ここの学生と呼ぶにはいささか若すぎるその容姿。国宏自身もも世相に合わせてその服装を変えてはいるが、彼の方がその移り変わりには機敏だ。
つられたようにほんの僅か歩調を早めた国宏へとたおやかな笑みを零して、京都大学、京坂都は両手を広げた。
「お久しぶりどすえ、国宏はん」
「……うん」
京坂も、と、喉まで出かかった声音がかたちになることはない。
また身長が伸びた。柔らかな榛色のひとみを見上げて国宏は一人ごちる。
都の居る土地からここまでは、新幹線を使ってまだ遠い。その距離を意に介さずこうして足しげく通ってくれるのは、一重に都の若さ故だろうか。或いは。
不意に吹き込んだ北風に身を震わせ、国宏はダッフルコートの袖を強く握り込む。それを見とがめた都が、襟元の煉瓦色のマフラーを抜き取り国宏の首周りを覆ってくれた。
広い手のひらが止まることなくなめらかな軌跡を描いていく。
「ちゃんと食べはります、また痩せたんと違いますか」
「そんなこと……」
秋にはそこかしこに散らばる銀杏を持ち帰っては煮て食べていたから問題はないはずだ。あれは頻尿の改善と咳によく効く。かつて国民病と謳われた結核にも。
そんなことを口にすればまた、実に含まれる青酸で千も食べれば死んでしまうと本草網目にあったろう、だとか、要らないことを都が心配するであろうことも、また国宏は知っている。
国宏の曖昧な返答に困ったように眉根を寄せた都は、襟元のマフラーを直しながら続けた。
「国宏はんはのんどりしよりおすから……しょうもないことで体壊さんでたもえ。もうえぇ大人やさかい」
「ん……」
大人。
たしかに都よりも幾許か長く、このいのちを謳歌している筈なのだ、国宏は。たとえ生活能力が決定的に欠如していたとしても。
今よりさらに幼いころ、都とふたり、他愛のない話をするのが好きだった。
大人になるってどういうこと、と、あどけないまなざしで見上げてきた都を、彼の前途を祝福するかのような秋のうららかな日差しを、吹いた風の匂いを、まだ国宏は鮮明に覚えている。
あの頃はまだ、都、とその名を呼ぶことに、まるで躊躇いもしなかった。
「……あれ、どう答えたっけなぁ」
明確な定義はないけれど、彼の君は二十の齢をその区切りと定めたのだから。
大人になるということは、選挙権を獲得し、酒精と煙草の禁を解かれる、そういうことだと茶を濁したのだろうか。
都がそんな生ぬるい子ども騙しの答えに満足したとも思えないが、彼がその優しさ故に国宏を許したとすれば話は別だった。
大人になるということは、様々なものを失っていくことだ。柔軟な発想力、奇抜な応用力、鮮烈な感性。画一的な組織への埋没は気付きながら傷付いていくということだ、と国宏東は考えている。
麻痺してしまうのだろう、川面にさらされる岸辺のように。
マニュアルやレールを完遂することにおいて他の追随を許さない国宏は、その独創性において都に捻じ曲がった羨望を抱いていることを自覚している。
「国宏はん?」
そのまま足を止めてしまった国宏を見兼ねて都は振り返り、やんわりと冷えた手のひらを握った。
振りはらうことはできた。都は国宏が厭うことをしない。絶対に。
けれども国宏はその手のひらを振りはらわなかった。あまつさえ握り返すことにした。自分より幼いくせに、と毒づくことも忘れずに。
気安く都と呼べなくなったその理由も、彼のもとへ足を運べなくなったその理由も、そのくせこうして不格好に手のひらを握りしめる理由も、本当は国宏自身が誰よりも正しく理解している。
けれども目の前に横たわるこの命題よりは、神の存在でも証明する方が幾許かは楽に思えるのだ。
「……大人になったんじゃなくて、」
驚いたように榛色のひとみを瞬かせていた都は、国宏の声に穏やかな笑みを浮かべた。
誰に似ることもない都のその痛々しいまでの感受性を、その傷を飲み込む強さを、国宏は疎ましく、愛おしく願っている。
自身が身につけることの叶わなかったものを、いつの間にか失ってしまったものを、都の内側の輝きに見ている。
「俺は、愚かものになったんだよ」
作品名:銀杏並木、君とダンス 作家名:梵ジョー