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アルセーヌルパン・ピーターパン

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大隈がその光景を目にした理由は、本当に偶然と言っていいほどの、ささいな機会の連なりだった。

早太は福澤と慶介に連れられ、福澤邸のなかで英国からの輸入ものだというこがね色のスコーンに舌鼓を打っている。
こってりとしたクロテッドクリームがたっぷりとかけられた焼きたてのそれと、薫り高い琥珀のレディグレイを置いて大隈が一人外に足を向けたのは、こちらの土地に不慣れであろう、国宏と都を出迎えるためだった。
足を気遣う下働きの女中たちの申し出を断ったのは、万が一彼らへの不敬を働いたらという心配もあれば、久方ぶりの彼らの顔を一刻も早くこの目に映したかったから、でもある。

常に変革と策謀のただなかに位置する国宏と都に、たまには息抜きでも、と茶会を催したのは福澤で、彼と慶介にひどく懐いている早太の声もあって、こうして大隈もその茶会に席を連ねている。
時刻を伝えた国宏と都が、そろそろ連れ立って駅前に訪れている頃合だ。

北風に身をさらす梢を眺めながら、大隈は外套の襟を立てる。きらきらとせせらぐ木漏れ日はあたたかに優しいが、流石にこの気温は肌を晒すのに厳しい。
人気のない駅前の路地に立ちすくむ、見慣れた和装の影は国宏だ。彼の背筋は、いつもまっすぐに伸びている。
額で寒気を割り開くかのようなある種の頑是なさを纏うその立ち姿を認めて、大隈は声を掛けようと片手をあげた。
そうして躊躇いのうちに、喉元まで出かかった声は消える。

ざんばらの黒髪が落ちかかる、人形のように整った面。湖面のような淡い青を嵌め込んだまなこ、象牙のようになめらかな肌。
白く清らな日の光を受けて、国宏は己の手のひらに口付けを落とした――ように、見えた。
海の向こう、彼方の国々の宗教画を幻視して大隈は目をみはる。

自身を見せる、他者を魅せる。
ある種の作為にまったくといっていいほど頓着のない東のうつくしさは、こうした何気ない瞬間に閃光のように訪れては、見るものの心を奪い去る。

数秒か数分かあたりのつかぬ時の流れ、その狭間をあてどなく彷徨っていると、視線の強さに気付いたのだろうか、すぅ、と面をあげた国宏が大隈を認め、茹で上がるようにして耳元までを染めた。
珍しく慌てたような、僅かに震える声音が乾いた冬の空気を揺らす。

「こんにちは大隈公、ご無沙汰しております。この度はお招きいただき――……御覧に、」

なられましたか?

消え去った語尾を想像に埋めることは容易い。
柳眉をハの字に歪めた国宏の問いかけに、ごまかすこともできず大隈は苦笑した。
国宏の僅かに黄味がかった手のひらに納められているのは一目で値が張るとわかる懐中時計で、磨きあげられたその文字盤に、吸い込まれるようにして周囲の空気までもが映り込んでいる。

「それは?」
「都の……京坂の、時計です。なんでも独逸のシーメンス社製とか」

それはもう正確に時を刻むのだ、と先日自慢されたばかりなんですよ。と、国宏はそうと注視せねば気付かぬほど僅かに口の端を持ち上げて笑った。
まなざしの穏やかさに心がざわめく。

「年に狂うのは一秒の百分の一だとか。あんまり自信を持っているものですから、少し悪ふざけをしたくなって。……進めてみたんです、五秒ほど」

五秒。たったの五秒だ。
気付くか気付かないかの瀬戸際の、いや気付く者の方が圧倒的に少ないであろう、本当に僅かな、些細な悪戯。
込められたものはなんだろう。

「東くんにしては珍しいね」
「どうか京坂には御内密に……気付かれたなら、謝りますが」
「ははは、了解したよ」

年に百分の一秒の誤差。ならば国宏が手に入れた五秒は、果たして都の五百年だ。
それは限りなく永遠に近い時間に思える。

あの口付けに込められた国宏の願いを大隈は知らない。
知らないながらも、彼の、あまりにも無欲に過ぎるように見受けられる国宏の、唯一といっていいであろう願いが叶うようにと祈っている。

「ところでその京坂くんはどこに?」

話の舵を取り、別方向へとそれを向けた大隈にあからさまにほっとした様子を浮かべた国宏が、常の温度を取り戻す。

「あぁ、京坂なら今……「お久しゅう大隈はん、国宏はんも荷物持たせたまま待たせてもうてすみません、堪忍な」
「いいや、ありがとう京坂……気が回らなくて、近場のもので申し訳ありません」

息を切らして駆けて来る都の片手には手土産なのだろう包みが揺れていて、大隈は顔を綻ばせる。
このあたり国宏と都の釣り合いは絶妙だ。

「ありがたく頂くよ。バターサンドかい?早太の大好物だ」
「ほんならよかった」
「では行こうか、君たちをみんなが首を長くして待ってる」

二人に背を向け、大隈もゆっくりと冬の路地を歩き始める。
連れ立って歩き出した国宏と都を振り返ってみせると、国宏が大隈に向かって薄くほほ笑んでみせた。
秘め事の共有に大隈もほほ笑み返し、胸のうちで呟く。
都のそれに触れることを赦される者も、またあのような悪戯を仕掛けるのことを赦されるのも国宏ただひとりなのだろう。
それはいっそ確信に近い。

稀代の怪盗に栄光あれ!
大隈の述懐は三人を認めて走り寄ってきた早太の歓声に遮られる。