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永い夜

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唐突にその夜はやってくる。まるで前触れの気配もなく、国宏の意思に頓着をせず、こころに爪をたてとりとめはない。
足掻くように数度寝返りをうった。清潔なリネンの肌触りはさらさらと心地よく、しかし眠れぬ佳人の長い夜を慰めるための術を持たない。
体温に生温く滲んだシーツへ額を押し付け、国宏は浅く嘆息する。

どうしても寝付けない夜がある。
それは思い出せないほど遠い遠い昔から、繰り返し国宏を苛ませる厄介な代物だ。今や国宏自身の手からさえ、遠く離れてしまった悪癖の一つ。
冷房の効かない真夏の夜の蒸し暑さだとか、疲労に浸り過ぎたからだだとか。或いはのっぴきならない状態に陥った生徒たちだとか、彼の君たちの抱える難解に過ぎる背景でもいい。
明確な理由。それさえ確かに与えられているのならば、まだ呼吸をすることは楽だった。
問題点さえ理解できれば解決のための手段は幾らでも見出だせる。それだけの力があると国宏は自負してるし、また事実彼はそのたおやかな手のひらにそれだけの力を持っていた。
この国を背負う、最高学府としての誇り。
目に見えるものは、怖くない。貫いて息の根をとめるだけの、知性の刃を手にしている。
意識を強くして国宏は呼吸を繰り返す。筋肉が緊張し、弛緩するのが分かった。
誰しもが持ち得る得手と不得手で、逆に昔から明確な結論を弾き出せない不明瞭なものは苦手だ。手にしてもするりと抜け出して消えてしまうやわらかなものたち。掴んでも掴んでもとりとめのない砂上の楼閣の虚しさがなにより心もとなくて、不安になる。
まなうらを榛色のやわらかな幻影が過ぎった。彼は、そういった不可思議なものたちを見つめるまなざしを絶さない。
躊躇いなく実よりも花をと愛でることが出来るのは、生来備わった美徳なのだろか。希求する好奇心のエネルギーは、いっそまるで暴力的だ。

筋道と論理、ものごとの道理が何もかもに備わっていれば安心できるのに。世界は不条理にみち満ちて、それらは国宏の安寧を脅かしてならない。
この世を動かすものが最終的には知性や理性と程遠い、いわゆる感情論であることを、学べば学ぶほど、生きれば生きるほど、思い知ることになった。深く苦い絶望とともに。
願いの強さで切り開く、それだけの躊躇いのない力を、意思を、自分はまだ持たない。国宏はそう自嘲する。或いはゆるやかにその熱を、失ってしまったのかのどちらかだ。
世界は内に向かってその深遠を開き、手招いている。これだけ長い生を受けて、まだその本質には気付けずにいる。

夜はただひたすらに平らかに続いていた。長く、長く、塗り潰された鈍い黒が滲んでいる。時計の短針は優に二の数を過ぎた。
眼球の奥が渇いたようにして引きつる。指先をあてて、目頭をゆるく圧迫する。
眠気を伴わない気怠さがじわりと広がって、ただそれだけだった。投げ出した四肢は泥のように重い。
明日はまた幾つか面倒な会議が入っている。はやく眠らなければと焦れば焦るほど、深い眠りへの甘やかな糸口は遠ざかっていくような気がして国宏は眉根を寄せた。
こういう夜は嫌いだ。
深々と、永い永いいのちが脳髄に凍みる。広く狭い世界に自分だけが取り残される幻覚はあながち虚偽ではない。
愛した人々は今は遠く、時の彼方だ。手を伸ばすこと、寄り添うことに躊躇う悪癖をまたひとつ身に着けつつあることを、国宏は確かに自覚している。
栓ないことを考えるほど酔狂ではないと自認しているつもりだった。なのに意義の欠片も持たない思考の循環に、こんな夜は捕らわれてならない。

ゆるりと吐き出したため息に応えるようにして、備え付けの黒電話がじりじりと古めかしい音を立てて鳴った。こんな夜更けに躊躇いもせず回線を繋ぐ相手を国宏は果たして彼しか知らない。
気怠い腕を持ち上げて、その受話器を持ち上げる。回線の向こう側から響いて来たのは、やはり予想にたがわず彼のやわらかなそれだった。

『国宏はん、ミラー細胞て知っとります』
「京坂、今何時だと……」
『固いこと言わんと、えぇやない起きよりましたんやろ?なぁ国宏はん』
「……知ってる」

まるで悪気がなく、また引く気配もない都の声に諦念の感を抱いたのか、国宏はもう一つ深く嘆息した。
ミラー細胞。
人間の脳は、行為一つ一つに対応して脳内の樹状突起から樹状突起、シナプスに電流を流している。近年取り沙汰されるミラー細胞というものは、自分ではなく他人が行なった動作、行動に反応して自身がまるでそれを行なったかのように、脳のシナプスが錯覚、反応するといった話だ。
たとえば飲み物を飲むときに働くシナプスがあったとして、真向かいで他人が飲み物を飲んでいるとする。その光景に反応して、自分の脳内シナプスに電流が流れる。
しかしながら不可思議なはなしでコップから飲み物を零しても、その細胞は反応しない。液体が流れ落ちる構造は変わらないのに。

『あれ、鍵になるんは好意感情やないか思うんどす』
「……誰の学説?……違うね、京坂の私見だ」
『ようお分かりに。飲むんも食べるんも好意的な感情を伴う場合が多いやろ、喉も渇かんときにガブ飲みする酔狂も居らやん』
「興味深いね」

流れるような都の声音はゆるやかにゆるやかに、国宏のささくれ立った感情を宥めていく。瞼の先をふと眠気が掠めたような気がして、国宏はちいさく苦笑した。
これではあまりにも現金というものだ。

『思いついたら誰かに聞いて欲しゅうなりまして』
「こんな時間に?」
『今出来よることもやらんお方はけっして成功なぞ致しません、日々是精進』

ふふふ、耳朶を吐息で揺らすような笑い声に、しかし国宏は口の端へ苦笑を刻んだ。まったく、耳が痛い。

『それでなぁ、これだけやありませんのよ国宏はん』

一呼吸を置いた都が、秘密めかして先を続ける。その僅かに細められたであろう榛の目もとも、ひそやかにほころんだ口もとも、想像するのはまるで容易いというのに。
鮮やかにその輪郭をなぞりながら、国宏は思う。触れられないのは、距離と重ねた年月のせい、それだけではないと知っている。

『この論理やったら、自分の、そうやねぇ、ロールモデルとでも言いましょか。好意を持った対象に、まるで近付くと思いませんか』

こう在りたい、成りたい、そう願いながら重ねた努力に流したシナプスの電流が、閃光のように瞬いてはその刹那を生きて消えていく。何十回、何百回と同じ神経のバイパスを駆けて、理想に近付く光になる。

『なぁ国宏はん、信じたいと思うんやよ。かつてうちらを創ったあの人らのように、努力が正しく叶うはずの未来を。なんだって掴めるんやて思いたいんよ』

手に入れて、勝ち取って。望む未来なら自分の手でつくって。先は見えなくても、何度失っても、手に入れたものがある。この身に備えたものがあると、そう笑ってみせたいじゃないか。灯のようにして抱いていて。
諦めないでほしい、そう在りたいと願うことを。願いは力だ。

「……京坂は、強いね」
『あんさんを守れたらて、思うとりますよ、いつも』

幼かった彼のただ柔らかかった手のひらは、いつの間にか硬く節張って、国宏のそれさえもすっぼりと包み込めるほどになってしまった。
作品名:永い夜 作家名:梵ジョー